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2020年3月11日水曜日

セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』 ④台湾の日式建築から学ぶべきこと


2020227日木曜日投稿「セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』 ③日式建築の意義」 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/02/blog-post_27.html から続く。)

「台湾は日本より30年進んでいる。」

渡邉先生はそうおっしゃられました。この言葉の意味は、近代建築の再生保存に関しては台湾の方が完全に先進国であり、日本は完全に遅れているとのことです。

日本では法隆寺などの本当に古いものは一生懸命保存するのですが、明治以降のものについては急に関心が薄れるようです。

理由として考えられることは、第一に日本の法制度上日本では古い住宅はすぐに資産価値が無くなり(60年で資産価値がゼロになる)、かつ住宅ローン等により新築が優遇されていること。

第二に、専門家が不在であること。日本の一級建築士の97%は新築の専門家であり、保存再生の専門家は3%に満たないとのことです。

そして、最後に市民の古いものへの思いや意識のレベルが随分異なるとのことです。

最後の例については、例えば東京の原宿駅と台東の関山駅(旧里壠駅)を挙げていらっしゃいます。

消防法等の関係もあるのでしょうが、東京で最古の木造駅舎である原宿駅は2020年に解体されることが既に決まっています。前回のお話に出た基隆高級中学の盧先生のように、強烈に保存を訴え、行動を起こす人もいないように見えます。

一方で関山駅の旧駅舎というのは、1919年(大正8年)に台東製糖株式会社が建造され、新規駅舎がつくられる1980年(昭和55年)まで現役で使用されました。その後台東県の文化財に指定され修繕修復が行われ、更には自転車メーカージャイアントのサイクリングステーションとして生まれ変わっています。

関山駅旧駅舎

個人的には一番の差は、やはり市民の気持ち、意識レベル、そして建築物に対する考え方だと思います。

台湾には明清朝あるいはそれ前の建築物はほぼないため、古い歴史的建築物というと日式建築になってしまい、一方で日本では歴史的建造物と言えば、江戸以前のものも少なくないという事実は確かにあります。

それでも日本は明治から敗戦までの昭和初期の歴史についてどこか抹殺とまでは言わなくとも、目をそむけようとしていると言えば、私の考え過ぎでしょうか。

これに反して、台湾の人たちは日本統治時代の良かったこと悪かったことを含め、真正面から受け止めようとしているように思います。

その中で、日式建築はれっきとした歴史の一部であり、伝承すべき精神的価値との重要な媒体となっており、守っていかなければならないという市民の意識が非常に強い様です。

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2020年3月5日木曜日

台湾古道散策 山尖古道の三重橋~六坑トロッコ跡~映画「無言の山丘」ロケ地~黄金の滝①


2020229日土曜日投稿「九份付近でプチ登山 ③天空の城黄金神社」 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/02/blog-post_29.html から続く。

前回の黄金神社も素敵だったのですが、例の近所のコーヒー屋のお姉さんが見せてくれた古い橋の写真が素敵なので、2020223日(日)に自分で見に行くことにしました。


お姉さんから散策のルートを教えてもらったのですが、途中何度か道に迷いつつも、何とかゴールまで到達することができました。これが結構面白い散策コースだったので、ここに記録し、みなさんと共有したいと思います。

    例によって台北の北門駅から九份へ向かう965号バスに乗ります。ただし今回は『隔頂』というバス停で下車します。

    「山尖路観光歩道」という石碑がありますので、その横の階段を降りていきます。


    この歩道を直進します。元々は古道だったのが、観光歩道として非常によく整備されていて、歩き易くなっています。


    しばらくすると三重橋(中国語では「三層橋」)に辿り着きます。



近くに「外九份溪圳橋」という解説の看板がありました。「外九份溪」は川の名前で、「圳橋」または「水圳橋」とは用水用の橋、すなわち水が通る橋の意味です。



一番上の橋は左右が非対称的な形をしており、現地で取れる玉石を使用しているとのことです。この近くにある日本鉱山精錬所に水を運んでいました。日本統治時代につくられたもので痛みが激しく、最近補修工事を終えました。

真ん中の橋は、更に後の時代に作られたコンクリート製の水道橋だったようですが、改修され人がこの上を歩けるようになりました。

一番下の石のアーチ橋も日本統治時代につくられた元々通行用の橋だったようです。古風な美しい橋です。

これで三重橋を見るという目的は早くも達成したのですが、これだけでは物足りないので、ついでに他のものも見ていきたいと思います。

    歩き続けると、舗装道路に出ます。案内の看板がありますが、現在地が赤い点のところです。この案内図の通り、左折してしばらく歩くとまた歩道(階段)がありますので、そこへ進みます。



    階段を登っていくと途中で昔の水道管があります。これも日本統治時代につくられたものなのでしょう。ここに入っていきます。



    もう一つの水道橋が見えます。これもまた古風溢れる美しい橋です。


    橋を過ぎると今度は岩山を切り開いたような歩道があります。ちょっと不思議な風景です。



    ここを抜けると左手に大きな岩があり、更に歩くと廟の駐車場に出ます。この廟にはトイレがありますので、必要に応じてここで休憩するとよいでしょう。



    廟を出て左に進みます。しばらくすると廟の大門がありますが、これをくぐって左折します。


    駐車場があり、その横に階段がありますので、これを登っていきます。


    階段を登り切ると公園がありますが、この公園を抜けると壁に食堂の看板があります。この看板の誘惑に負けずに左折します(笑)。


    舗装路を道なりに進み続けると「勸濟堂停車場」という名前の大きな駐車場に出ます。横に案内図があり、「報時山」という方向の階段を登っていけば展望台があって、良い景色が楽しめます。時間に余裕があればこちらに登ってもよいでしょう。「報時山」に登るかどうかはさておき、この大きな駐車場を抜けます。



    煉瓦の瓦礫のようなものがありますが、これが当時のトロッコ列車の駅の跡で、「天間車遺址」と呼ばれているようです。




次にトロッコ列車の線路の跡を歩いて行きます。

(続く)

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2020年3月3日火曜日

とある台湾で流行っている漫画について



最近ツイッターで台湾のどなたかが発表した漫画です。日本でも紹介されているようですが、改めて見ていきたいと思います。

上半分は台湾の日本統治時代を描いています。日本人が台湾人に対して、「勝手にどこででも痰を吐いたり、小便・便をしてはいけない。清潔な水道水を使わなければならない。港湾では検疫を行わなければならない。それにまだまだ……(以下百字以上続く)」と言っています。そして「台湾の衛生と防疫管理等は日本が教えてくれた。」とあります。

下半分は現代を描いています。日本人に対して「マニュアル上に書いてない状況に遭遇するとこうなる。」との説明の言葉があり、「石化」している、すなわち固まっている日本人の絵が描かれています。台湾人は日本人に「固まり方が激しいけど、私に教えて欲しい?」と聞いています。「風水輪流転」というコメントが取り消し線で消されています。「風水輪流転」は「時は流れ、運命は流転する(入れ替わる)」というような意味に捉えてよいかと思います。

ここで日本統治時代の台湾の衛生管理を更に詳しく見るために、少々長いですが、司馬遼太郎の『台湾紀行』の一節を引用してみます。

……中国南部の多湿な地は、“瘴”という毒気があると中原の人達はおもっていた。
 “瘴”は、熱病のもとになる。瘴雨、瘴霧、瘴癘(しょうれい)などというおそろしい熟語がつくられた。

 台湾は、そういう地だった。
 マラリアだけではなく、ネズミが媒介するペストもたえず発生し、蔓延した。
 むろん、赤痢などの疫病の発生も多く、防疫思想は皆無といってよかった。
 後藤新平自身、医者であり、かつ内務省衛生局長や陸軍の検疫も担当して、衛生の専門家だった。
 その上、かれは高木友枝という専門家を台湾によび、衛生行政のすべてをまかせた。
 「四千五百名にも及ぶペスト患者の出たことが二年もありました」とまかせられた高木友枝はいう(鶴見祐輔著『後藤新平』)。
 高木の衛生課の部署からも数十頭の病鼠が発見され、また官舎からもペスト患者が出るというしまつだった。ついでながら、当時の総督府庁舎は全時代の巡撫衙門の建物をつかっていた。平屋の小さな中国式家屋で、あたらしい総督府庁舎ができあがるのは、大正八年(一九一九)まで待たねばならなかった。
 全島に、防疫運動も展開した。日本人があまりにペストさわぎをするので、台湾人たちは日本人がペストを台湾にもちこんだとかんちがいしたらしい。
 また公設の魚菜市場と精肉場もつくった。最初はここからの収益をすべて衛生費にあてるというやり方をとった。この財源捻出のやり方は後藤新平のアイデアで、また「公共衛生費」という予算費用のたてかたも、財政学上、独創的なものであったらしい。……

高木友枝という人は会津の出身で、後藤新平の東京帝国大学時代の学友、元々北里柴三郎の助手をしていました。1901年に台湾でペストが大流行し3000人以上が死亡、後藤新平は高木友枝を台湾によびました。高木友枝はその後台湾総督府医学学校校長、中央研究所初代所長、台湾電力株式会社初代社長等を務め、今でも「台湾衛生学の父」と呼ばれています。

最近でも2018年に「黃土水、高木友枝典藏故事館」という高木友枝の記念館がオープンした際、SARSの時の衛生署長(厚生労働大臣に相応)で現副総統の陳建仁さんが、高木友枝の子孫の板寺慶子さんと総督府で面会されていました。

後藤新平のアヘン撲滅の話は余りに有名ですのでここで詳細は論じませんが、このように日本統治時代の台湾、とりわけ第四代総督児玉源太郎と民政長官後藤新平の時代には、それまで化外の地であり瘴癘の地であった台湾において、伝染病を抑え、公衆衛生を普及させていったのです。当然、当時マニュアルなどありませんでした。

33日朝現在において、ジョンズ・ホプキンス大学のサイトによると、武漢肺炎の患者数は日本では247名、台湾では41名です。台湾政府は感染をうまく抑えている一方で、日本政府は非常に混乱しているように見えます。

今回の件で「同じ日本人でこの差はなんなんだ」と台湾の人達は驚き呆れているのですが、この漫画はそんな台湾の人達の気持ちをうまく描いているように思います。

長州人の児玉さんは、天からどのような思いで同郷の後輩である安倍さんを見ているのでしょうかね。

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2020年2月27日木曜日

セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』 ③日式建築の意義


2020221日金曜日投稿「セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』日式建築とは」
から続く。)

昨今台湾では各地で日式建築が再生され、新たな観光スポット等として脚光を浴びています。台北では松山煙草工場が「松山文創園區」として生まれ変わり、台中の「宮原眼科」、台南の「林百貨店」はそれぞれの市を代表する観光スポットとなっています。

日本人は懐かしい気持ちでこれを見、明治から第二次世界大戦敗戦までに建築されたものが今に至るまで保存されていることに意義を感じます。いわば、時空を超えて存在している建築物自体に意義を見出しているのではないでしょうか。

一方で台湾の人々が熱心に日式建築を再生保存する背景には、彼らが別の意義を感じている事実があると渡邉先生は指摘されます。

その例として、渡邉先生は基隆高級中学宿舎についてお話されました。

基隆高級中学宿舎の正式名称は「基隆官廳舍遺址―基隆中學校奏任官舍」らしいです。基隆に残された奏任官の宿舎はこちらのみで、奏任官とは明治時代の官吏で高等官の一つ、今で言えば省庁の課長ぐらいに相応するようです。

基隆高級中学の盧先生という方は、荒れ放題になっていたこの宿舎を教育の場として使っていきたいと考え、渡邉先生を呼んでこの宿舎を見てもらったり、生徒たちと荒れ放題になっている建物を掃除したり、庭の草むしりをしたり、色々と保存に向けて情熱をもって様々な行動を起こされました。

そして201911月には美しくなった宿舎にて座談会が開催されました。

(出典:「基隆官廳舍遺址―基隆中學校奏任官舍」のフェイスブック)

渡邉先生もこの座談会に出席されたのですが、建築物についてお話されたのは渡邉先生ご自身だけで、他のスピーカーの方々は、228事件当時にこの建物がどのような役割を果たしたか、この建物の付近で昔何があったか等の話ばかりで、建物自体の話は誰もされなかったらしいです。

台湾の人たちにとって日式建築とは「触媒としての建築物」であるというのは渡邉先生の言葉です。日式建築は地域の人々の記憶や歴史という無形で価値有るものの中に、有形で象徴的なものとして佇んでいるのでしょう。

「基隆官廳舍遺址―基隆中學校奏任官舍」のフェイスブックのページ(https://www.facebook.com/%E5%9F%BA%E9%9A%86%E5%AE%98%E5%BB%B3%E8%88%8D%E9%81%BA%E5%9D%80-%E5%9F%BA%E9%9A%86%E4%B8%AD%E5%AD%B8%E6%A0%A1%E5%A5%8F%E4%BB%BB%E5%AE%98%E8%88%8D-385862512175111/)を拝読していると、恐らく盧先生が書いたと思われる文章を見つけました。

文創是城市再生的推手!
但,城市若缺乏對歷史文化等精神價的認識及理解,就好像教育若完全由市場機制主導,那就是補習班化,只有授業而沒有傳道;宗教若商品化,買賣"",那根本就是褻瀆,只有物質而喪失了宗教講究神性丶勸人為善之道。文化產業最主要的特徵,是對「精神」的高度訴求,如何開始呢?
可先從認識歷史,感知故事,觸動同理神入,才能再更積極、精確地去了解、掌握人們渴望的價與感受,接下來的事業,需要引入或善用此文化元素,才能造就魅力十足的「文化創意產業」。

(以下拙訳)
文化・創造は都市再生の大きな担い手である!
もし都市が歴史や文化等の精神的な価値に対して理解を欠くならば、教育は市場メカニズムの主導により予備校化し、授業だけで伝承はなくなってしまう。宗教がもし商品化すれば、「神」の売買になり根本的に冒瀆でしかない。物質があるのみで、宗教の精神に対するこだわりや、人を善へと導く道は喪失する。文化産業の主な特徴は、精神的なものに対する高度な追求である。だがどこから手を付ければよいのか。
 それはまず歴史を認識することから始められる。歴史の中にある物語を知り、感じ、それに触れ、そして共感する。更にはもっと積極的に細かいところまで正確に理解し、人々が求めている価値や気持ちを把握する。続いて文化の要素を取り入れて活用する。こうしてこそ魅力溢れる「文化創造産業」を生み出すことができるのではないか。

日式建築は、台湾の人々にとってれっきとした歴史の一部であり、伝承すべき精神的価値との媒体となっているように思いました。

(続く)

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2020年2月24日月曜日

九份付近でプチ登山 ②茶壺山と半屏山登山



(「九份付近でプチ登山まずは台北から金瓜石まで」 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/02/blog-post_16.html から続く)

「金瓜石(黄金博物館前)」のバス停では珈琲屋のお姉さん、娘さんと姪御さんの三人が待っていてくれました。

トイレをすませて出発!(注意:登山道に入るとトイレは一切ありません。)

他の多くの日本人の方々と同様、私も「千と千尋の神隠し」のモデルとなったという九份には何度か来たことがあり、黄金博物館にも来たことがありますが、茶壺山はそれまで聞いたことがありませんでした。黄金博物館の前をそのまま直進すると確かに階段があり、これが「茶壺山歩道」の入り口とあります。そしてその歩道の先には小さいティーポットのようなものが見えます。

少々急な階段道ですが、これを登る切るとアスファルトの道路に出て、そこにはあずまや(中国語でいう涼亭のこと)があります。そして持ち手のないティーポットみたいなものがハッキリと見えます。言い遅れましたが、中国語で「茶壺」は「茶つぼ」ではなく急須やティーポットの意味です。そして持ち手がないので、この山は正式には「無耳茶壺山」と呼ばれています。


アスファルトの道を登ると更に「茶壺山歩道」の続きがあるので、これを登り続けるとまた別のあずまやがあり、そこからは素晴らしい景色が見えます。(この日は曇り空で残念。)この海は海岸べりと海岸から離れたところで色が異なることから「陰陽海」と呼ばれているとのことです。


ここからもう少し頑張れば頂上です。ティーポットの周りに人が集まっているのが見えます。


この写真では少し分かりにくいかもしれませんが、人々が次々とティーポットの中に入って行きます。このティーポットの中に潜って、それからティーポットの周りを半周すると半屏山に行く道があります。

ティーポットでの移動はロッククライミングと言えば大袈裟ですが、岩をくぐったり、跨いだり、這ったりと正直少々怖くて足がすくみました。ただし危険なところにはロープがきちんと張ってあり、かつ足場も作られていますので安心感があります。

しかも登り慣れた人がいらして、色々とアドバイスしてくれるのも嬉しい。見ず知らずの人間に「あ~、右足はもう少し下の方に!」などと親切に声をかけてくれます。山の中でも台湾の人々の人情が暖かいです。

半屏山へ行く道は両側をススキが生い茂る美しい道で台湾のインスタスポットのようですが、僕たちがこの道に出た時は濃霧でこの風景を楽しめず残念でした。

このススキ道を進んでいくとまたも岩、岩、岩になってきます。ちょっとした岩山の崖のような感じです。インターネットで半屏山のことを調べると、元々は台湾語で「半爿」山(pòaⁿ-pêng、ぼあぴん)と呼ばれていたのが、後に北京語で半屏山となったとのことです。「爿」は木を二つに切った片側の意味で、台湾語で「半爿」とは片側半分のような意味です。ですので、半爿山は片側半分しかない山という意味で、片側は垂直に近い崖ということなのでしょうね……。

呼び名は大袈裟な気もしますが、崖のような岩場の道が少々続くのは事実です。しかしながらこちらもティーポットと同様、ロープがきちんと張ってあり、岩を削った足場もしっかりと作られていますので、ロープと足場を手がかりに一歩一歩進んでいけばきちんと頂上に辿り着きます!


頂上で女性軍を待っていると、彼女たちより先に登山慣れした感じの男性が一人でいらっしゃいました。

「ここが半屏山の頂上で間違いは無いですか?」と尋ねるとこっくりと頷かれ、更に「この石はなんですか」(写真の中央付近に写っている四角錐台のもの)と聞くと「100年以上前に日本人が測量した時につくった三角点だ。」とおっしゃります。

司馬遼太郎は「実際の台湾統治は、乃木のあとにきた第四代総督の児玉源太郎からはじまるのである。」と言っています。ただ児玉は陸軍大臣、内務大臣や陸軍参謀総長次長等を兼任したため、実務は民生長官の後藤新平によって行われました。児玉が1898年(明治31年)2月に総督に就任し、後藤が同年3月に民政長官に就任します。

児玉、後藤が台湾にて真っ先に着手したのが土地調査事業でした。1898年(明治31年)717日に公布された「台湾地籍規則及び土地調査規則」に基づき、台湾総督府臨時土地調査会は、地籍調査、三角測量、地形測量を実施しました。

このような歴史的事実に鑑みると、この男性が言っていることも恐らく間違いないと思われます。

今まで自分が通って来た険しい道のりを考えると、統治を初めて間もない台湾で、こんなところに一体どのように来て、どのように測量したのか……。先人の努力を少し想像しただけで、大変な苦労だったに違いないことを改めて思い知らされるのでした。

そんな思いに耽っていると、ようやく賑やかな女性軍も頂上にやってきましたので、少し休んでから、また足を進めます。

少し霧が薄くなり、ススキの道も風景が見えるようになってきました。


(③へ続く)

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2020年2月21日金曜日

セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』 ②日式建築とは


2020213日投稿「セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』梅澤捨次郎技師のこと、日本統治時代の台湾の建築物のこと」
から続く。)

台湾を初めて訪れた時、九州みたいだと感じられる日本人が多いようです。それは気候や風土が似ているからだけではなく、所々に日本と同様の建築物が残されているからかもしれません。

前回の投稿にてお話した通り、今回の台湾大学日本研究センターの台日交流教室は「台湾の日式建築を訪ねて~歴史的建造物の保存から学ぶこと~」というものでした。

講師は渡邉義孝先生という一級建築士で尾道市立大学の非常勤講師をされている方でした。日本の一級建築士の97%が新築を専門とされているそうですが、渡邉先生は古い建物の調査・保存を専門とされていて、台湾における日本統治時代の建築物の視察・調査のため、2011年に初訪台されて以来、約20回台湾にいらしています。

視察の際には素敵な手書き・手描きのノートをとられているそうです。建築物の外観や見取り図がきっちりとしているのは勿論、関係者をインタビューした際に相手の似顔絵も描いていらっしゃるのですが、これがまた素敵です。

(出典:渡邊義孝「臺灣日式建築紀行」P81

縁あってこのノートを台湾で翻訳・出版されたそうです。

渡邊義孝「臺灣日式建築紀行」 https://www.books.com.tw/products/0010808597


日式建築とは

セミナーのお話の方は、まず『日式建築』とは何かということをきちんと定義する必要があるという話から始まりました。

台湾の日本統治時代の建築物で代表的なものには、総督府、松山煙草工場、迪化街、当時の公務員の宿舎群がありますが、これらは台湾ではすべて「日式建築」と呼ばれています。

台湾で「日式」という中国語が一番よく使われるのは、間違いなく「日本料理」を意味する「日式料理」(りーしーりゃおり)という熟語の形だと思われます。チャイナで使われる中国語では「日本料理」は「日本菜」(りーべんつぁい)ですが、台湾では「日式料理」という言葉になるのです。

そう考えると『日式建築』は「日本建築」で良さそうですが、日本語の「日本建築」はいわゆる和風の建築物を表しますが、総統府等は洋風の建築物です。そう考えるとこの言葉の定義はそう簡単ではないかもしれませんね。

結論から言えば、「台湾の日本統治時代1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までに建てられた建築物の総称」というのが最も有力な定義とのことです。從って、公務員宿舎のような和風建築あるいは和洋折衷建築も総統府のような洋風建築も含まれます。

しかし、更にはここでいう「洋風建築」という言葉も曲者です。

この台湾の「日式建築」の中の「洋風建築」の中には、

    ギリシャ建築
    ローマ建築
    初期キリスト建築
    ロマネスク建築
    ゴシック建築
    ルネッサンス建築
    新古典主義建築

の様式がすべて含まれていて、更にはコロニアル様式や熱帯風ベランダなどもあり、ヨーロッパでは見られない「洋風建築」が多々存在しているとのことです。

これは当時日本とヨーロッパは海路での行き来だったため、その途中であるインドや東南アジアで見られるコロニアル様式や熱帯風ベランダなどもそのまま台湾にて応用されたようです。

明治維新後、日本はヨーロッパから急速に様々な建築様式を学び取りましたが、当時の日本人建築家たちは自らが学んだことを全て台湾で試したと言えるのではないでしょうか。

日本の建築物と台湾の日式建築との違い

しかし、明治の建築家は自らもつ日本建築の伝統とヨーロッパから学んだ洋風建築を直接そのまま台湾に持ち込んだかというと、決してそうではないようです。

例えば、当時建築された公務員宿舎が和洋折衷の住宅に見えますが、日本にある和洋折衷住宅とは異なるようです。

(出典:渡邊義孝「臺灣日式建築紀行」P28-29

日本の和洋折衷住宅と台湾の日式建築の違いについて、まず容易に想像できる点は、基礎の部分です。台湾はより高温多湿で白蟻も多いことから、日本では床下(地面から一階の床)が通常45センチ程に対し、台湾では60センチ前後になるとのことです。

またこれともよく似た話ですが、台湾では日本より雨や台風が多く木材が断面から腐るリスクが高くなるため、南京下見板張りの出隅を銅板で保護してあるケースが多いようです。

(出典:渡邊義孝「臺灣日式建築紀行」P46

更に台湾の日式建築の住宅では、出窓の下で床の上の位置に通気孔があるとのことです。勿論日本と同様、床下の通気孔は勿論あります。台湾の湿気に対応するため、通気孔が二重になっているのです。

他にも、台湾の公務員宿舎では二戸一(ニコイチ)と呼ばれる二連長屋が多いそうですが、日本の長屋はほぼ全てが和風建築であるのに対し、台湾では洋館が多いなど、違いはまだまだあります。

このような話をお聞きしつつ、台湾は明治のやる気に溢れる建築家の新しい試みの地であり、今も残される日式建築はその情熱や試みを具現化したものではないかと思わずにはいられませんでした。

(③へ続く)

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2020年2月13日木曜日

セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』 ①梅澤捨次郎技師のこと、日本統治時代の台湾の建築物のこと


日本統治時代の台湾で活躍した日本人の名前か挙げるとすれば、台湾人であれ日本人であれ、多くの人々が当時東洋一の規模を誇る烏山頭(うざんとう)ダムを建設した八田與一技師のお名前を思い浮かべるのではないでしょうか。八田與一技師は金沢の人で、八田家は私の生家から歩いて10分ほどのところにあり、地区一帯では八田技師に対して非常に思い入れがあります。

八田技師のお弟子さんで、台中市新社区で白冷圳(はくれいしゅう)を建設した磯田謙雄(いそだのりお)技師も金沢の人で、台中や金沢で名前が知られるようになってきています。磯田技師の生家は金沢市寺町にあって、僕の大叔母夫婦が寺町五丁目に住んでいるので、磯田技師にも親しみを感じますし、その近くの金沢市城南公民館の方々が熱心に磯田技師のことを研究しているようです。

さて、台南では当時台湾南部随一の百貨店である林百貨(はやしひゃっか)を設計・建築し、林百貨一帯の末広町の地域開発計画を作成・実行し、また台北では今やその跡地が芸術村として有名になっている松山煙草工場を設計・建築した梅澤捨次郎という建築家がいました。最近台湾ナンバーワンモデルであるリン・チーリン(林志玲)さんが、台南にて挙式を行いました。その際に会場として使われた場所の一つが台南市美術館で、ここの一号館は昔の台南警察署であり、これもまた梅澤建築です。

梅澤技師もやはり石川県の出身で、生まれは石川県鶴来町(現白山市)、本籍は金沢市の中心地である金沢市広坂でした。梅澤技師はこのように台湾で多くの素晴らしい建築を行ったのですが、日本はおろか、地元金沢でも名前は余り知られていないように思います。

昔、松山煙草工場内に台湾の人間国宝と呼ばれる呉宝春さんというパン職人のお店があり、こちらのパイナップルケーキが頗る美味しく、これをお土産に携えて梅澤さんの話をするのですが、石川県の知り合いたちもどうもピンとこないようでした。(パイナップルケーキはみんなに満足していただけるのだけれども……。)

梅澤建築にとどまらず、最近の台湾では、日本統治時代の建築物を復元・再生させて、新しい観光スポットや地域のランドマークになってきています。台湾の人々が日本統治時代の建築物を大切にしてくれていることを有難く感じると同時に、日本では明治から昭和初期の建築物は余り大切にされないことを残念に感じるのです。ところがある時、「台湾では今も多くの日本時代の建築物が残されており、大切に復元、保存されている。」と知り合いに話したところ、「横浜にはたくさん古い建物が残されていますよ。」とちょっと小馬鹿にしたような口調で返答されました。確かに横浜には多くの明治から昭和初期の建築物が残されていますが、台湾ほどではないだろうなと思いつつ、一方で私自身は建築についてはずぶの素人で、具体的なデータ等はもっていないので口をつぐみました。

こんな感じで、私は梅澤捨次郎さんや台湾にある日本統治時代の建築物について、一種のやるせない気持ちや違和感を抱かずにいられませんでした。

日本統治時代の台湾では、明治人が一所懸命慣れない環境において苦労しながら、数々の素晴らしい建築物を設計・建設した。しかしながらその末裔である現代日本人は、先達の苦労や偉業を知りもしなければ、今の時代に残された先達の形見であり遺産である当時の歴史的建造物にも全く関心ももたない。もはや遺跡のようなそんな建築物たちは、ひっそりと台湾という場所に隔離され、優しい台湾の人達によってなんとかその形を保ってきているのではないか……。

そんなことを考えている時、1130日から数日間、石川県建築士事務所協会の御一行が訪台され、梅澤技師の建築物を視察するというニュースが地元の北国新聞に報道され、その記事の切り抜きのコピーを地元の知り合いが送ってくれました。何かボランティアでお手伝いでもすればよいのだけれども、僕自身は121日から東京へ出張だったので、それも叶いませんでしたが、ただ梅澤技師が石川県で認知されることはこの上なく嬉しいニュースだと感じていました。

台湾でもこのことは好感をもって報道されていました(次のリンクを参照)。

(出典: 次のリンクより取得)


更に東京の出張から台北に帰ってくると、台湾大学日本研究センターから台日交流教室というセミナーの案内がありました。演題は『台湾の日式建築を訪ねて~歴史的建造物の保存から学ぶこと~』、余りのタイミングの良さにおっと思い、このセミナーに申し込みをしました。

(②へ続く)


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2020年1月21日火曜日

曽文ダムマラソン ②(マラソンに関係がない)曽文渓の話


以下は20192月に曽文ダムマラソンに参加した時のお話です。

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曽文(そぶん)ダムと言うと聞いたこともないダムの名前でしかないかもしれませんが、曽文渓と言えば、八田與一さんがつくった烏山頭ダムの水源として聞いたことがお有りの方も少なくないかもしれません。

司馬遼太郎さんの『台湾紀行』にこのようなくだりがあります。

……結局、官田渓(かんでんけい)という大きからぬ渓流に目をつけた。この川の上流の烏山頭(うざんとう)にダムをつくって貯水しようというのである。
が、官田渓だけでは、貯水量はたかが知れている。その本流である曽文渓の水流をそそぎこみたかった。
曾文渓は遠く阿里山に発している。山々をめぐり、支流をあわせてじつに水勢がさかんだった。
ただ官田渓を堰きとめる予定地の烏山頭の位置からいえば、曾文渓は烏山嶺という山のむこうを流れているのである。
八田與一はこの烏山嶺をくりぬいて水をダムに導く設計をし、施工した。くりぬかれる隧道は、三〇七八メートルにおよび、多くの死者が出た。八田與一は、それらを湖畔の「殉工碑」にまつった。……

この烏山嶺をくりぬいて曽文渓の水を烏山頭ダムに引き込むトンネルは「烏山嶺隧道」と呼ばれています。

古川勝三先生の『台湾を愛した日本人~土木技師八田與一の生涯』において、烏山頭ダムの建設において2つの大きな試練があったといい、そのうちの1つはこの烏山例隧道の建設工事中の事故であったと指摘されています。それだけに烏山嶺隧道の建設はのかなりの難工事だったわけです。

下の地図を見ると、上中央に珊瑚のような形をした烏山頭ダムがあります。その右側から下方へ曽文渓が流れていきます。烏山嶺は珊瑚形のダムの右側にあり、隧道がそれをくりぬき、曽文渓と烏山頭ダムをつないでいるのが分かります。

(出典:古川勝三『台湾を愛した日本人~土木技師八田與一の生涯』P127)

下の写真において、右側に見えるのが曽文渓です。中央の建築物は水門で、烏山頭ダムに取り込む水量を調節するとともに、ゴミなどが入らないように濾過の役割をも果たしています。


更に水門の西側です。下の写真の右手が水門、左側が烏山嶺隧道の東口です。


もう少し近づいてみたところです。取水口の両岸の石垣は、当時八田技師と一緒に台湾に来ていた金沢出身の方々が、前田家の家紋の梅鉢紋をイメージして作られた、という話を昔案内してくれた嘉南農田水利会のお姉さんがされていました。幾分山奥で、草が生えても中々草刈りに来る人も少ないため風化しているとも残念そうに仰られていました。


最後の写真は、東口の正面図です。




下方の口に曽文渓の水がどんどん入り込みます。その量たるや毎秒50トン、水流の速度は毎秒2.1メートルとのことです。想像が難しいほどの大きなスケールです。

残念ながらこの取水口は役目を果たし、今は新しい取水口の工事もほぼ終わり、ほぼ使われなくなっていると聞いています。

取水口が変わっても、曽文渓は今でも烏山頭ダムの水源であることに変わりなく、烏山頭ダムから嘉南平原の田畑に潤いの恵みが注がれ続けています。
  
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本ブログの概要

起業、大学院での活動、在台日本人の生活等を通して色々な角度から見た台湾について、そして台湾から見た日本について、皆さんとお話していきたいと思っています。