本日夕刻、李登輝さんの米寿記念パーティーがあった。
会場に着くと人の多さに驚いた。
150人以上が集まっており、その殆どが日本人だった。
台湾でこんなにも多くの日本人が集まっている場に行くのは久しぶりだったので、何だか緊張してしまった。
どんな集まりなのかも分からずに、もしかすると李登輝さんと直接お話できる機会があるかもしれないと思い、李登輝さんの本を持参していたのだが、うーん、この人数では直接李登輝さんからサインをもらうのは難しいかもしれないと思った。
ちょっとがっかりしていたのだが、会が進行している合間に、うちの顧問のCさんはうまく開催者側と話をつけて、僕が李登輝さんと直接お話をできる時間を作ってくれた。
流石に戒厳令前から台湾にいる人は年季が違うと思った(Cさんは在台歴23年の大ベテランである)。
開催側の方から、李登輝さんに「この方は先生の学校の後輩にあたる方です」とご紹介してもらい、李登輝さんと直接お話することが出来た。
李登輝さんに「私カブと申しまして、京都大学を」と申し上げたところで、李登輝さんは僕の話を遮られた。
「いや、私は京都大学は途中でやめているんです。」
私はそこで直ぐに、
「いえ、私も京都大学は途中でやめて、コーネル大学に行ったのです。丁度李登輝さんが(コーネル大学で)講演された年でした。」
と返すと、
「は、は、そうか、そうか、専攻はなんだったの?」
高い声でお笑いになられ、そして李登輝さんの声が急に軽いものになった。
「オペレーションズリサーチです。」
「そうか、そうか、オペレーションズリサーチでしたか。」
ここで、顧問のCさんがすかさず我々が持ってきた李登輝さんの本に直筆サインをおねだりした。
この人は台湾に長いせいか、ときに動作が日本人離れして敏捷である。
李登輝さんは快く承諾して下さり、私がお持ちした先生の著作である『台湾の主張』を手に取ると、突如一番後ろのページを開かれ、
「かなり古い本ですね。」
と呟くように仰られた。
李登輝さんは何も言わなかった。
この沈黙を僕はきっといい意味であると心の中で勝手に解釈していると、私の名前が面白い名前だ、どこの出身かと仰られながら、サインを書き始められた。
「私の父母は富山の出身で、私は金沢の八田與一さんのご実家のとなり村で生まれました。」
『村』と言ってしまった自分に驚いた。現在の地名では無論『町』というのが正しい。
李登輝さんの古風な旧制高校生風の日本語に接しているうちに、僕の生まれた町は「石川県金沢市〇〇町」は「石川縣河北郡〇〇村」に変換されてしまったのである。
「八田與一さんか。」
サインをしながら、今度はうなられるような声を出された。私が
「そういえば、先生のご親友の陳舜臣さんの甥っ子が私の大学時代の親友でした。」
と言ったときには、李登輝さんはサインをすることに没頭されていた。
先生は最近目に不都合があるようで、かつ今日はメガネをお持ちにならなかったので、サインを書くのも一苦労のご様子だった。
何だか申し訳ないことをしてしまった。
先生にサインして頂いた本を手にしたときには、自分の後ろには長蛇の列があった。
恐縮しながら、その場を慌てて後にしたのだった。