2020年2月29日土曜日

九份付近でプチ登山 ③天空の城黄金神社


2020224日月曜日投稿「九份付近でプチ登山茶壺山と半屏山登山」 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/02/blog-post_24.html から続く。

半屏山の頂上からススキ道を進んでいくとまた上りや下りの起伏のある山道もありますが、今までの道のりを考えると随分と歩き易いものでした。

アスファルトの道に出るのでこれを右折して暫く行くと、更に右側に整備された綺麗な歩道が現れます。矢印の形の看板に「黄金神社」と書いてあるので、そこを歩いていきます。

すると霧の間に小さく天空の城みたいなものが小さいながらも見えてきます。


これを見ながら歩き続けると、霧が少しずつ晴れてきて、黄金神社がよりハッキリと見えてきました。



絶景になんだかドキドキしながら、早歩きで黄金神社へ向かいました。

遂に入り口に到着しました。桜の花が咲いています。


この入口から中に入ると立派な灯籠と鳥居があります。


更に中には灯籠とともにギリシャ神殿のような柱が残されています。


一番奥です。


説明の看板です。正式名称は金瓜石山神社、大国主命、金山彦命、猿田彦命の三神を祀る、明治3010月創建云々とあります。


九份には何度か来ていて、黄金神社のことは知っていましたが、この神社を遠く上から見る景色は初めてで感動しました。また黄金神社の境内にいると、もう神社自体はないのですが、ここで金鉱掘削に従事していた明治人の息遣いが聞こえそうな気持ちになりました。

インターネット上で調べると、往時の黄金神社の写真がありました。


九份から足を伸ばして、茶壺山、半屏山、黄金神社と回ってみるプチ登山コース、思ったよりも大変でしたが、かなりおすすめです。行く時には手袋とお水はくれぐれも忘れずに!

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2020年2月28日金曜日

能作「富山三大美酒ツアー」 ④やまふじぶどう園でワインテイスティング


2020222日金曜日投稿「能作「富山三大美酒ツアー」若鶴酒造と三郎丸蒸留所見学」 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/02/blog-post_22.html から続く。)

次に庄川を渡って、富山市婦中地区へ向かう。五箇山を通って砺波平野を流れる庄川沿いには「川金」という鮎で有名なお宿の看板が見え、懐かしく感じた。昔、父の友人もやはり庄川沿いで鮎料理のお店を経営し、よくお邪魔したのであった。庄川の鮎は天下一品である。

庄川を越えると般若中学校下(=学区)に入る。般若中学とはインパクトのある名前で、子供の頃、近所にここの出身の人がいて、「あの人(出身が)般若や」と言われてびっくりした記憶がある。ちなみにその人は優しい方で、今でも弟がお世話になっている。

頼成の森という森林公園の横をぬけると富山市婦中地区で意外に近い。

富山県のワイナリーといえば、氷見の「セイズファーム」が有名だと思う。セイズファームは一時期ワインの輸入卸もやっていて、JALのラウンジでワインを飲んでいると、ラベルに輸入代理店:富山県氷見市…とあり驚いたことがあった。

また金沢市内では「ぶどうの木」というぶどう園を備えたレストランが有名である。「ぶどうの木」は僕の生家から目と鼻の先にあって身近な存在だったのが、最近人気が出て金沢駅や市内中心にも支店を出して繁盛している。

さて、「やまふじぶどう園」は僕が知らないだけで、北陸では一番古いぶどう園・ワイナリーだという。1927年に先々代の山藤重信さんが設立。その頃の富山では米騒動があり、お酒を作るためのお米が極端に不足したという。ちなみに僕の時代の日本史の教科書において富山県が出てくるのは、この1918年の米騒動だけだった。

色々と果物を育てたところ、ぶどうがこの土地に一番あったようである。そして1933年に念願のワイン造りを始められ、「蓬莱山葡萄酒」と名付けた富山県産ワインを発売したと言う。当時の看板を見ると、越中富山の薬売りで知られる土地柄だけあって、滋養強壮を全面に出している。蓬莱は台湾の自称でもあるため、僕はなんだか嬉しくなった。


今は家族四代11人(それと猫と犬)でこのぶどう園を切り盛りしているとのことである。

ワイナリーツアーと言っても、冬なのでぶどうの木は既に剪定されていてかつ外は寒いため、倉庫の中のワイン醸造タンクのみ見学させて頂く。今回のツアーでは能作さんでも、若鶴酒造さんでも、同じような見学がかなり多いのか、皆さん説明がかなり巧みで感心させられる。とりわけ、このやまふじぶどう園のお母さんは抜群で、大輔花子の花子のような雰囲気でユーモア溢れる語りをされる。

見学を終えてからテイスティング。


一杯目は自園産ソービニヨン・ブランの白ワイン。ソービニヨン・ブランの甘みや旨味は夜に頂点に達するため、わざわざ日が暮れてから夜に家族総出で摘んで、それを使ってワインにするので「ほしあつめ」と名付けたそうである。

二杯目はメルローとマスカット・ベーリーAのブレンドの「ねこかぶり」。フレッシュな感じが、台湾で飲むのにぴったりかなと思った。

三杯目はメルローの「ときわすれ」。非常に良く出来ていて、弟は即これを一瓶買った。

四杯目はメルローにオークチップを加えて熟成した「ジャンメルロー」。これもまた捨てがたい。

どれも美味しい。嬉しい驚きだった。どれを買うか非常に迷ったが、「ねこかぶり」を一本買って帰路についた。

【後日談】
台湾の前の会社の同僚たちとの飲み会の時に「ねこかぶり」を開けたが、好評だった。ラベルが可愛いので、友人の奥さんがボトルを持って帰った。



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曽文ダムマラソン ⑤こぼれ話


走り終わった後、預けていた荷物を受け取り体育館で着替えをし、送迎バスの乗り場へ向かいました。時間は午後1:40頃で、最終の送迎バスは2:00です。

片付けを行っている大会スタッフに「請問,接駁車在哪裡搭?」(送迎バスの乗り場はどこでしょうか)と聞きながら、彼らが指差すところを目指して足を引きずりながら歩いていきます。乗り場はそんなに遠くないのでしょうが、たったか歩けないので気持ちは少々焦りました。

ようやく乗り場に近づいてきたと思える時に一人のおばあちゃんに出会いました。「接駁車在哪裡搭?」とこのおばあちゃんに北京語で尋ねると、おばあちゃんは台湾語と日本語をまぜこぜにして一生懸命話してくれます。山の中で日本人に出会い、喜んでくれている様子でした。最後に「バスはあそこ」とおばあちゃんが指差したところへ、日本語で「ありがとう」とお礼を言いながら行きました。

ところが待てどもバスは来ません。そのうちおばあちゃんの息子さんらしい方が顔を出して、私を見て「あっ!」と声を上げます。那是一般公車的公車牌,不是接駁車的!(そこは普通のバスのバス停で、マラソンの送迎バスの乗り場じゃないぞ!)と叫ばれました。そして息子さんが指を指す送迎バス乗り場へ慌てて移動しましたが、時間をみると既に2:05でした……。

少し待っても送迎バスは来ません。愕然としていると、金沢マラソンに参加したというお兄さんが歩いてきます。「あれ、まだ帰らないの?」と言われて、送迎バスに乗り過ごしてしまったことを説明すると、「どこへ行こうとしてる?台南?台南までは送れないけど、玉井までなら送ってあげるよ。」と言ってくれます。山の中のダムのほとりでどうしようかと途方に暮れていた私は、嬉しくて涙が出そうになりました。

このお兄さんは高雄の人で、奥さんと子供たちは玉井の民宿で遊んでいるとのことです。大きな4WDの車で山を下るとマンゴーで有名な玉井の街にすぐに入り、マンゴーかき氷の看板をすり抜けながら、親切にも私を玉井のバスターミナルまで送ってくれました。

高雄のお兄さんに救ってもらい、またも台湾の方々の人情に助けられました。

玉井から台南のバスはことことと心地よく揺れながら進んでいきます。私は眠りにつきました。

曽文マラソンは、完走できたし台湾人の人情にも触れることが出来て、最高でした。満足です。めでたし、めでたし。

最後に大会ビデオを転載します。

 
(出典:曽文ダムマラソン大会フェイスブック)

(出典:曽文ダムマラソン大会フェイスブック)

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2020年2月27日木曜日

セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』 ③日式建築の意義


2020221日金曜日投稿「セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』日式建築とは」
から続く。)

昨今台湾では各地で日式建築が再生され、新たな観光スポット等として脚光を浴びています。台北では松山煙草工場が「松山文創園區」として生まれ変わり、台中の「宮原眼科」、台南の「林百貨店」はそれぞれの市を代表する観光スポットとなっています。

日本人は懐かしい気持ちでこれを見、明治から第二次世界大戦敗戦までに建築されたものが今に至るまで保存されていることに意義を感じます。いわば、時空を超えて存在している建築物自体に意義を見出しているのではないでしょうか。

一方で台湾の人々が熱心に日式建築を再生保存する背景には、彼らが別の意義を感じている事実があると渡邉先生は指摘されます。

その例として、渡邉先生は基隆高級中学宿舎についてお話されました。

基隆高級中学宿舎の正式名称は「基隆官廳舍遺址―基隆中學校奏任官舍」らしいです。基隆に残された奏任官の宿舎はこちらのみで、奏任官とは明治時代の官吏で高等官の一つ、今で言えば省庁の課長ぐらいに相応するようです。

基隆高級中学の盧先生という方は、荒れ放題になっていたこの宿舎を教育の場として使っていきたいと考え、渡邉先生を呼んでこの宿舎を見てもらったり、生徒たちと荒れ放題になっている建物を掃除したり、庭の草むしりをしたり、色々と保存に向けて情熱をもって様々な行動を起こされました。

そして201911月には美しくなった宿舎にて座談会が開催されました。

(出典:「基隆官廳舍遺址―基隆中學校奏任官舍」のフェイスブック)

渡邉先生もこの座談会に出席されたのですが、建築物についてお話されたのは渡邉先生ご自身だけで、他のスピーカーの方々は、228事件当時にこの建物がどのような役割を果たしたか、この建物の付近で昔何があったか等の話ばかりで、建物自体の話は誰もされなかったらしいです。

台湾の人たちにとって日式建築とは「触媒としての建築物」であるというのは渡邉先生の言葉です。日式建築は地域の人々の記憶や歴史という無形で価値有るものの中に、有形で象徴的なものとして佇んでいるのでしょう。

「基隆官廳舍遺址―基隆中學校奏任官舍」のフェイスブックのページ(https://www.facebook.com/%E5%9F%BA%E9%9A%86%E5%AE%98%E5%BB%B3%E8%88%8D%E9%81%BA%E5%9D%80-%E5%9F%BA%E9%9A%86%E4%B8%AD%E5%AD%B8%E6%A0%A1%E5%A5%8F%E4%BB%BB%E5%AE%98%E8%88%8D-385862512175111/)を拝読していると、恐らく盧先生が書いたと思われる文章を見つけました。

文創是城市再生的推手!
但,城市若缺乏對歷史文化等精神價的認識及理解,就好像教育若完全由市場機制主導,那就是補習班化,只有授業而沒有傳道;宗教若商品化,買賣"",那根本就是褻瀆,只有物質而喪失了宗教講究神性丶勸人為善之道。文化產業最主要的特徵,是對「精神」的高度訴求,如何開始呢?
可先從認識歷史,感知故事,觸動同理神入,才能再更積極、精確地去了解、掌握人們渴望的價與感受,接下來的事業,需要引入或善用此文化元素,才能造就魅力十足的「文化創意產業」。

(以下拙訳)
文化・創造は都市再生の大きな担い手である!
もし都市が歴史や文化等の精神的な価値に対して理解を欠くならば、教育は市場メカニズムの主導により予備校化し、授業だけで伝承はなくなってしまう。宗教がもし商品化すれば、「神」の売買になり根本的に冒瀆でしかない。物質があるのみで、宗教の精神に対するこだわりや、人を善へと導く道は喪失する。文化産業の主な特徴は、精神的なものに対する高度な追求である。だがどこから手を付ければよいのか。
 それはまず歴史を認識することから始められる。歴史の中にある物語を知り、感じ、それに触れ、そして共感する。更にはもっと積極的に細かいところまで正確に理解し、人々が求めている価値や気持ちを把握する。続いて文化の要素を取り入れて活用する。こうしてこそ魅力溢れる「文化創造産業」を生み出すことができるのではないか。

日式建築は、台湾の人々にとってれっきとした歴史の一部であり、伝承すべき精神的価値との媒体となっているように思いました。

(続く)

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2020年2月26日水曜日

石川県プレミアムツアー 第二日 山中温泉かよう亭 ④日本一の朝御飯


(石川県プレミアムツアー 第一日 山中温泉かよう亭夕ご飯 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/02/blog-post_19.html より続く)

翌朝起きると雨は止んでいた。お部屋の露天風呂が朝日に照らされながら湯気を上げている。


お部屋の炬燵から見える緑に心が落ち着く。


館内の所々に火鉢が置いてある。


暖冬とは言え、朝の山中はやはり少々冷える。部屋の炬燵や廊下の火鉢がの誘惑は大きいが、部屋に置かれていたお散歩&ジョギングマップが面白そうだったので、寒さに負けずにジョギングに行った。地図のピンクの4.8キロコースを走った。登り坂がきつかったけれども良いコースだった。(寄らなかったが新しく出来た展望台もこのコース上にある。)


ジョギングで汗をかいた後、朝風呂を一浴び。大浴場の入り口に九谷のネズミの置物があった。


風呂の後、朝食までに少しまだ時間があったので、館内をうろうろした。

正面玄関。


館内の奥まったところ。



大浴場の横。


九谷の細字大皿。


百首きちんと書かれています!


そして遂に高橋治氏が日本一と評した朝御飯を頂いた。


芭蕉も愛したお湯、侘び寂びを感じさせるしつらえ、そしてジワもの(石川県の方言で「地のもの」の意味)がふんだんに使われた食事等のお蔭で、身体も心も綺麗さらさらになった気がします。

(続く)

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2020年2月24日月曜日

九份付近でプチ登山 ②茶壺山と半屏山登山



(「九份付近でプチ登山まずは台北から金瓜石まで」 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/02/blog-post_16.html から続く)

「金瓜石(黄金博物館前)」のバス停では珈琲屋のお姉さん、娘さんと姪御さんの三人が待っていてくれました。

トイレをすませて出発!(注意:登山道に入るとトイレは一切ありません。)

他の多くの日本人の方々と同様、私も「千と千尋の神隠し」のモデルとなったという九份には何度か来たことがあり、黄金博物館にも来たことがありますが、茶壺山はそれまで聞いたことがありませんでした。黄金博物館の前をそのまま直進すると確かに階段があり、これが「茶壺山歩道」の入り口とあります。そしてその歩道の先には小さいティーポットのようなものが見えます。

少々急な階段道ですが、これを登る切るとアスファルトの道路に出て、そこにはあずまや(中国語でいう涼亭のこと)があります。そして持ち手のないティーポットみたいなものがハッキリと見えます。言い遅れましたが、中国語で「茶壺」は「茶つぼ」ではなく急須やティーポットの意味です。そして持ち手がないので、この山は正式には「無耳茶壺山」と呼ばれています。


アスファルトの道を登ると更に「茶壺山歩道」の続きがあるので、これを登り続けるとまた別のあずまやがあり、そこからは素晴らしい景色が見えます。(この日は曇り空で残念。)この海は海岸べりと海岸から離れたところで色が異なることから「陰陽海」と呼ばれているとのことです。


ここからもう少し頑張れば頂上です。ティーポットの周りに人が集まっているのが見えます。


この写真では少し分かりにくいかもしれませんが、人々が次々とティーポットの中に入って行きます。このティーポットの中に潜って、それからティーポットの周りを半周すると半屏山に行く道があります。

ティーポットでの移動はロッククライミングと言えば大袈裟ですが、岩をくぐったり、跨いだり、這ったりと正直少々怖くて足がすくみました。ただし危険なところにはロープがきちんと張ってあり、かつ足場も作られていますので安心感があります。

しかも登り慣れた人がいらして、色々とアドバイスしてくれるのも嬉しい。見ず知らずの人間に「あ~、右足はもう少し下の方に!」などと親切に声をかけてくれます。山の中でも台湾の人々の人情が暖かいです。

半屏山へ行く道は両側をススキが生い茂る美しい道で台湾のインスタスポットのようですが、僕たちがこの道に出た時は濃霧でこの風景を楽しめず残念でした。

このススキ道を進んでいくとまたも岩、岩、岩になってきます。ちょっとした岩山の崖のような感じです。インターネットで半屏山のことを調べると、元々は台湾語で「半爿」山(pòaⁿ-pêng、ぼあぴん)と呼ばれていたのが、後に北京語で半屏山となったとのことです。「爿」は木を二つに切った片側の意味で、台湾語で「半爿」とは片側半分のような意味です。ですので、半爿山は片側半分しかない山という意味で、片側は垂直に近い崖ということなのでしょうね……。

呼び名は大袈裟な気もしますが、崖のような岩場の道が少々続くのは事実です。しかしながらこちらもティーポットと同様、ロープがきちんと張ってあり、岩を削った足場もしっかりと作られていますので、ロープと足場を手がかりに一歩一歩進んでいけばきちんと頂上に辿り着きます!


頂上で女性軍を待っていると、彼女たちより先に登山慣れした感じの男性が一人でいらっしゃいました。

「ここが半屏山の頂上で間違いは無いですか?」と尋ねるとこっくりと頷かれ、更に「この石はなんですか」(写真の中央付近に写っている四角錐台のもの)と聞くと「100年以上前に日本人が測量した時につくった三角点だ。」とおっしゃります。

司馬遼太郎は「実際の台湾統治は、乃木のあとにきた第四代総督の児玉源太郎からはじまるのである。」と言っています。ただ児玉は陸軍大臣、内務大臣や陸軍参謀総長次長等を兼任したため、実務は民生長官の後藤新平によって行われました。児玉が1898年(明治31年)2月に総督に就任し、後藤が同年3月に民政長官に就任します。

児玉、後藤が台湾にて真っ先に着手したのが土地調査事業でした。1898年(明治31年)717日に公布された「台湾地籍規則及び土地調査規則」に基づき、台湾総督府臨時土地調査会は、地籍調査、三角測量、地形測量を実施しました。

このような歴史的事実に鑑みると、この男性が言っていることも恐らく間違いないと思われます。

今まで自分が通って来た険しい道のりを考えると、統治を初めて間もない台湾で、こんなところに一体どのように来て、どのように測量したのか……。先人の努力を少し想像しただけで、大変な苦労だったに違いないことを改めて思い知らされるのでした。

そんな思いに耽っていると、ようやく賑やかな女性軍も頂上にやってきましたので、少し休んでから、また足を進めます。

少し霧が薄くなり、ススキの道も風景が見えるようになってきました。


(③へ続く)

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2020年2月22日土曜日

能作「富山三大美酒ツアー」 ③若鶴酒造と三郎丸蒸留所見学


(能作「富山三大美酒ツアー」能作工場見学と鋳物体験
から続く)

高岡市戸出地区にある能作さんから砺波市油田地区にある若鶴酒造さんへは目と鼻の先である。砺波平野を走るローカル線の城端線では一駅、車では10分弱である。

若鶴酒造さんは創業文久2年(1862年)、150年以上の歴史を持つ酒蔵である。

最近では「若鶴」ブランドより「苗加屋」(のうかや)ブランドの方が有名かもしれない。城端線に砺波駅の隣に東野尻駅という小さな駅がある。僕が高校生の時に既に無人駅だった。そこの地名が砺波市苗加(のうか)と言うが、若鶴酒造さんの創業家は元々ここで「苗加屋」という旅籠を営んでいらしたらしい。その屋号に因んだブランドである。

更に若鶴酒造さんは、今や日本酒よりも北陸唯一のウイスキーの蒸留所である「三郎丸蒸留所」の方が有名かもしれない。戦中の米不足により、米以外の作物からアルコールをつくる研究をはじめ、1952年(昭和27年)にウイスキーの製造免許を取得、富山県内で「サンシャインウイスキー」を発売。

蒸留所の改修工事の資金調達のため、2016年に55年もののシングルモルトウイスキーが発売。その名は「三郎丸 1960 シングルモルト55年 カスクストレングス」。これを抽選販売により完売。2017年にクラウドファンディングにより支援者を募り、支援総額38,255,000円を調達した。

改修後の現在の三郎丸蒸留所。


三郎丸蒸留所へ入っていく小道にある看板。



三郎丸蒸留所の入り口横の看板。


三郎丸蒸留所に入るとよい香りがする。こちらは入ってすぐ右手にある樽。


最後の桶職人の方が、引退前に吉野杉、能登竹でつくった仕込み樽。



高岡銅器製のポットスチル「ZEMON」(ゼモン)。三郎丸蒸留所と高岡銅器の梵鐘造りの名匠である老子(おいご)製作所により開発された。


肝心のテイスティングの方は、錫の器で飲む日本酒やウイスキーは、プラスチックのコップで飲んだものより、なぜかまろやかでした!

(④に続く)

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2020年2月21日金曜日

セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』 ②日式建築とは


2020213日投稿「セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』梅澤捨次郎技師のこと、日本統治時代の台湾の建築物のこと」
から続く。)

台湾を初めて訪れた時、九州みたいだと感じられる日本人が多いようです。それは気候や風土が似ているからだけではなく、所々に日本と同様の建築物が残されているからかもしれません。

前回の投稿にてお話した通り、今回の台湾大学日本研究センターの台日交流教室は「台湾の日式建築を訪ねて~歴史的建造物の保存から学ぶこと~」というものでした。

講師は渡邉義孝先生という一級建築士で尾道市立大学の非常勤講師をされている方でした。日本の一級建築士の97%が新築を専門とされているそうですが、渡邉先生は古い建物の調査・保存を専門とされていて、台湾における日本統治時代の建築物の視察・調査のため、2011年に初訪台されて以来、約20回台湾にいらしています。

視察の際には素敵な手書き・手描きのノートをとられているそうです。建築物の外観や見取り図がきっちりとしているのは勿論、関係者をインタビューした際に相手の似顔絵も描いていらっしゃるのですが、これがまた素敵です。

(出典:渡邊義孝「臺灣日式建築紀行」P81

縁あってこのノートを台湾で翻訳・出版されたそうです。

渡邊義孝「臺灣日式建築紀行」 https://www.books.com.tw/products/0010808597


日式建築とは

セミナーのお話の方は、まず『日式建築』とは何かということをきちんと定義する必要があるという話から始まりました。

台湾の日本統治時代の建築物で代表的なものには、総督府、松山煙草工場、迪化街、当時の公務員の宿舎群がありますが、これらは台湾ではすべて「日式建築」と呼ばれています。

台湾で「日式」という中国語が一番よく使われるのは、間違いなく「日本料理」を意味する「日式料理」(りーしーりゃおり)という熟語の形だと思われます。チャイナで使われる中国語では「日本料理」は「日本菜」(りーべんつぁい)ですが、台湾では「日式料理」という言葉になるのです。

そう考えると『日式建築』は「日本建築」で良さそうですが、日本語の「日本建築」はいわゆる和風の建築物を表しますが、総統府等は洋風の建築物です。そう考えるとこの言葉の定義はそう簡単ではないかもしれませんね。

結論から言えば、「台湾の日本統治時代1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までに建てられた建築物の総称」というのが最も有力な定義とのことです。從って、公務員宿舎のような和風建築あるいは和洋折衷建築も総統府のような洋風建築も含まれます。

しかし、更にはここでいう「洋風建築」という言葉も曲者です。

この台湾の「日式建築」の中の「洋風建築」の中には、

    ギリシャ建築
    ローマ建築
    初期キリスト建築
    ロマネスク建築
    ゴシック建築
    ルネッサンス建築
    新古典主義建築

の様式がすべて含まれていて、更にはコロニアル様式や熱帯風ベランダなどもあり、ヨーロッパでは見られない「洋風建築」が多々存在しているとのことです。

これは当時日本とヨーロッパは海路での行き来だったため、その途中であるインドや東南アジアで見られるコロニアル様式や熱帯風ベランダなどもそのまま台湾にて応用されたようです。

明治維新後、日本はヨーロッパから急速に様々な建築様式を学び取りましたが、当時の日本人建築家たちは自らが学んだことを全て台湾で試したと言えるのではないでしょうか。

日本の建築物と台湾の日式建築との違い

しかし、明治の建築家は自らもつ日本建築の伝統とヨーロッパから学んだ洋風建築を直接そのまま台湾に持ち込んだかというと、決してそうではないようです。

例えば、当時建築された公務員宿舎が和洋折衷の住宅に見えますが、日本にある和洋折衷住宅とは異なるようです。

(出典:渡邊義孝「臺灣日式建築紀行」P28-29

日本の和洋折衷住宅と台湾の日式建築の違いについて、まず容易に想像できる点は、基礎の部分です。台湾はより高温多湿で白蟻も多いことから、日本では床下(地面から一階の床)が通常45センチ程に対し、台湾では60センチ前後になるとのことです。

またこれともよく似た話ですが、台湾では日本より雨や台風が多く木材が断面から腐るリスクが高くなるため、南京下見板張りの出隅を銅板で保護してあるケースが多いようです。

(出典:渡邊義孝「臺灣日式建築紀行」P46

更に台湾の日式建築の住宅では、出窓の下で床の上の位置に通気孔があるとのことです。勿論日本と同様、床下の通気孔は勿論あります。台湾の湿気に対応するため、通気孔が二重になっているのです。

他にも、台湾の公務員宿舎では二戸一(ニコイチ)と呼ばれる二連長屋が多いそうですが、日本の長屋はほぼ全てが和風建築であるのに対し、台湾では洋館が多いなど、違いはまだまだあります。

このような話をお聞きしつつ、台湾は明治のやる気に溢れる建築家の新しい試みの地であり、今も残される日式建築はその情熱や試みを具現化したものではないかと思わずにはいられませんでした。

(③へ続く)

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2020年2月20日木曜日

曽文ダムマラソン ④曽文ダムマラソンを実際に走る



7時にスタートのピストルが鳴ると、みんなが一斉にスタートゲートを越えていきました。ゲートをすぐ越えたところで黃偉哲台南市長ら関係者が一列になって見送ってくれます。

曽文ダムマラソンのフルマラソンのコースはスタート地点から10.5K地点までを2往復するというものです。


(出典:曽文ダムマラソン大会フェイスブック)

制限時間は6時間半で、各関門の閉鎖時刻は、31.5キロ地点が12時に閉鎖されるのみです。こういうと、完走は容易に聞こえるのですが、私は知り合いから曽文ダムマラソンはアップ・アンド・ダウンが激しく、かなり辛いと聞かされて(脅されて)いましたので、スタートからかなりスピードを抑えて走ることにしました。

スタート地点から少し下り坂で、しばらくは緩やかな上り下りが続き、4キロ地点の『曾文之眼』(曽分の眼)という建物に辿り着きます。


(出典:曽文ダムマラソン大会フェイスブック)

こちらを過ぎた辺りから急激な上り坂になりました。足が動かなくなりそうになりながら、それでも絶対に歩きたくないと踏ん張りつつ6キロ地点に何とか辿り着くと記念碑があり、ダムの堤体部分がぱっと開けてきました。

堤体付近はフラットで、かつ堤体を過ぎると少し下り坂があり一息つけました!

と思うのも束の間のことで、観景台(展望台の意味)というタワーを過ぎたところから、堤体前ほど急ではないですが、ひたすら上り坂になりました。上り坂は本当に自分との戦いですね。


(出典:曽文ダムマラソン大会フェイスブック)

シティマラソンと違って沿道に応援してくれる人もいません。それでもすれ違う時に他の見知らぬランナーの方々が「加油(じあよー)!」(北京語で頑張れの意味)とか「加油(がーゆー)!」(台湾語で頑張れの意味)とか励ましの声をかけてくれるのが嬉しいです。自分も「加油(がーゆー)!」と返事をしながら、相手と自分を励まします。

こうして踏ん張りつつ10.5キロの折り返し地点まで着くとホッとしました。

戻りは下り坂が続きます。リズムにのってタンタンタンと下っていくと、ようやくここで空気の美味しさ、風の心地よさ、ダムや川の水の青と山の緑の美しさを楽しむ心のゆとりが出てきました。更にこの日は天気にも恵まれ、空も青く、ああここまで走りに来てよかったと心から思えました。

例の曽文の眼を過ぎて、スタート地点まで戻る時にまた上り坂がやってきます。しかもここで、ハーフマラソンの参加者たちがどんどんラストスパートをかけて、追い抜いていきます。自分はなぜハーフマラソンでなくフルマラソンに申し込んでしまったのかと、今更ながら後悔しながら、でもここは我慢の時と自分のペースでゆっくり走り続けました。そしてハーフマラソンの参加者たちのゴールする歓声を聞きながら、2往復目に突入しました。

2往復目もずっと足を止めずに遅くとも走り続けていたのが、26キロを過ぎた堤体の手前の上り坂でついに足が止まってしまいました……。ここで時間を見ると制限時間の6時間半にはまだ余裕がありそうなので、上り坂は歩いて脚力と体力をセーブし、下り坂で走って制限時間内にゴールするように作戦を変えることにしました。

曽文ダム周辺は海抜150300メートルの山の中で、朝到着した時は肌寒かったのですが、昼間になるとそれなりに暑くなってきました。

また給水やエイドステーションはたくさん設けられているのですが、昨晩台南の居酒屋で少々食べすぎたようでややお腹の調子が余りよくないため(苦笑)、固形のものは食べずに自分で持ってきたエナジージェルを食べまくりました。上り坂が多いせいか、やたらとお腹が空くのです。(自分の食いしん坊を上り坂のせいにするのはよくないですね。)



ジェルを食べているところをしっかりとカメラマンに写真に撮られました……。

ゴールの近くの最後の上り坂に来ると、制限時間には間に合いそうなので、ゆっくりと歩いていました。そうすると一人の若いランナーの方が、私のゼッケンを見て話しかけてきました。

「你是日本人嗎?」(日本人ですか?)

「是啊,我是日本金澤人!」(そうですよ。日本は金沢の生まれです。)

「真假,我去年參加金澤馬耶,這就是我第一次參加國外的比賽!」(本当に?去年の金沢マラソンに参加したよ。初めての海外でのマラソンだったんだ。)

哇,我們金澤人好榮幸非常感謝參加金澤馬!」(それは金沢人として非常に光栄です。金沢マラソンへのご参加、どうも有難うございます!)

彼はニコッとして、じゃあまた走るよ、お先にと言ってその場を去りました。

金沢マラソンに参加してくれる台湾人が非常に多い中、金沢からも台南のマラソンに参加して欲しいと改めて考えつつ僕もまた走り始めると、ゴールに到着。


タイムは恥ずかしくて決して人様に言えるものではありませんが、なんとか完走(完歩)でき喜びひとしおでした。

(出典:曽文ダムマラソン大会フェイスブック)

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本ブログの概要

起業、大学院での活動、在台日本人の生活等を通して色々な角度から見た台湾について、そして台湾から見た日本について、皆さんとお話していきたいと思っています。