2020年3月3日火曜日

とある台湾で流行っている漫画について



最近ツイッターで台湾のどなたかが発表した漫画です。日本でも紹介されているようですが、改めて見ていきたいと思います。

上半分は台湾の日本統治時代を描いています。日本人が台湾人に対して、「勝手にどこででも痰を吐いたり、小便・便をしてはいけない。清潔な水道水を使わなければならない。港湾では検疫を行わなければならない。それにまだまだ……(以下百字以上続く)」と言っています。そして「台湾の衛生と防疫管理等は日本が教えてくれた。」とあります。

下半分は現代を描いています。日本人に対して「マニュアル上に書いてない状況に遭遇するとこうなる。」との説明の言葉があり、「石化」している、すなわち固まっている日本人の絵が描かれています。台湾人は日本人に「固まり方が激しいけど、私に教えて欲しい?」と聞いています。「風水輪流転」というコメントが取り消し線で消されています。「風水輪流転」は「時は流れ、運命は流転する(入れ替わる)」というような意味に捉えてよいかと思います。

ここで日本統治時代の台湾の衛生管理を更に詳しく見るために、少々長いですが、司馬遼太郎の『台湾紀行』の一節を引用してみます。

……中国南部の多湿な地は、“瘴”という毒気があると中原の人達はおもっていた。
 “瘴”は、熱病のもとになる。瘴雨、瘴霧、瘴癘(しょうれい)などというおそろしい熟語がつくられた。

 台湾は、そういう地だった。
 マラリアだけではなく、ネズミが媒介するペストもたえず発生し、蔓延した。
 むろん、赤痢などの疫病の発生も多く、防疫思想は皆無といってよかった。
 後藤新平自身、医者であり、かつ内務省衛生局長や陸軍の検疫も担当して、衛生の専門家だった。
 その上、かれは高木友枝という専門家を台湾によび、衛生行政のすべてをまかせた。
 「四千五百名にも及ぶペスト患者の出たことが二年もありました」とまかせられた高木友枝はいう(鶴見祐輔著『後藤新平』)。
 高木の衛生課の部署からも数十頭の病鼠が発見され、また官舎からもペスト患者が出るというしまつだった。ついでながら、当時の総督府庁舎は全時代の巡撫衙門の建物をつかっていた。平屋の小さな中国式家屋で、あたらしい総督府庁舎ができあがるのは、大正八年(一九一九)まで待たねばならなかった。
 全島に、防疫運動も展開した。日本人があまりにペストさわぎをするので、台湾人たちは日本人がペストを台湾にもちこんだとかんちがいしたらしい。
 また公設の魚菜市場と精肉場もつくった。最初はここからの収益をすべて衛生費にあてるというやり方をとった。この財源捻出のやり方は後藤新平のアイデアで、また「公共衛生費」という予算費用のたてかたも、財政学上、独創的なものであったらしい。……

高木友枝という人は会津の出身で、後藤新平の東京帝国大学時代の学友、元々北里柴三郎の助手をしていました。1901年に台湾でペストが大流行し3000人以上が死亡、後藤新平は高木友枝を台湾によびました。高木友枝はその後台湾総督府医学学校校長、中央研究所初代所長、台湾電力株式会社初代社長等を務め、今でも「台湾衛生学の父」と呼ばれています。

最近でも2018年に「黃土水、高木友枝典藏故事館」という高木友枝の記念館がオープンした際、SARSの時の衛生署長(厚生労働大臣に相応)で現副総統の陳建仁さんが、高木友枝の子孫の板寺慶子さんと総督府で面会されていました。

後藤新平のアヘン撲滅の話は余りに有名ですのでここで詳細は論じませんが、このように日本統治時代の台湾、とりわけ第四代総督児玉源太郎と民政長官後藤新平の時代には、それまで化外の地であり瘴癘の地であった台湾において、伝染病を抑え、公衆衛生を普及させていったのです。当然、当時マニュアルなどありませんでした。

33日朝現在において、ジョンズ・ホプキンス大学のサイトによると、武漢肺炎の患者数は日本では247名、台湾では41名です。台湾政府は感染をうまく抑えている一方で、日本政府は非常に混乱しているように見えます。

今回の件で「同じ日本人でこの差はなんなんだ」と台湾の人達は驚き呆れているのですが、この漫画はそんな台湾の人達の気持ちをうまく描いているように思います。

長州人の児玉さんは、天からどのような思いで同郷の後輩である安倍さんを見ているのでしょうかね。

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起業、大学院での活動、在台日本人の生活等を通して色々な角度から見た台湾について、そして台湾から見た日本について、皆さんとお話していきたいと思っています。