(2020年3月4日水曜日投稿「石川県プレミアムツアー 第二日 高野山真言宗別格本山 那谷寺」 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/03/blog-post_4.html より続く)
石川県金沢市と富山県南砺市の境に医王山(いおうぜん)という標高939メートルの山があります。
金沢市内常盤橋からのぞむ医王山
前回のお話の通り、後に「越の大徳」と讃えられた泰澄法師は、養老元年(717年)に白山を開山し、養老3年(719年)この医王山を開山されています。薬草が多いことから、唐の育王山にちなんで育王仙と名付けたのですが、後に時の天皇が大病を患われたときに、泰澄法師がこの山の薬草を献上したところ快癒され、泰澄は神融法師の称号を賜わり、この山は医王山と命名されたといいます。
藩政期には戸室石(医王石)の産出地であったため、前田家よりご禁制の山として管理されました。金沢城の石垣の大半にこの戸室石が使われているのです。
明治36年に泉鏡花が短編『薬草取』を、昭和9年に室生犀星が小説『医王山』を発表しました。金沢出身の二人の文豪が医王山をテーマとした作品を世に出しているわけです。
鏡花は浅野川沿い、犀星は犀川沿いの人なので、私自身は金沢の北側の生まれで浅野川の方により馴染みがあるためか、鏡花により親しみを感じます。
余談ですが、小林秀雄は鏡花の最後の作品である『縷紅新草』に対し、「言葉といふものを扱ふ比類のない作品」と評しています。そして『鏡花の死其他』で、こんなことを言っています。
泉鏡花氏が逝去された。謹んで哀悼の意を表する。この作家は、倦きずにお化けばかりを描いて来た。近頃お化けも流行らない、従つて鏡花も一向に流行らない大家として逝去された。鏡花は、嘘から出る真だけを信じた。盲信したと言つてもいいだらう。
〔中略〕併し、畢竟さういふ仕事より他に、一般に芸術家といふものの悦びがあるのだらうか。どんなに明敏な分析力を持つた芸術家でも、心底にこの盲信を蔵してゐる。
〔中略〕これが芸術に於いて、その原始の性質を持続させるものであり、芸術に於ける人間的な性質も、其処にあるのかも知れぬ。在るが儘の真では足らず、嘘から真を創り出さうといふ欲望ほど、人間の刻印の確かなものもあるまいから。
鏡花の父親は象眼細工・彫金等の職人であったといいます。私は鏡花の作品は分かりませんが、鏡花には典型的な金沢人の良い意味での職人的な頑固で一途なこだわりを感じずにはいられないのです。
泉鏡花記念館
話がそれてしまいましたが、鏡花の『薬草取』にこんなくだりがあります。
「姉さん、お前さんは麓の村にでも住んでいる人なんか。」
「はい、二俣村でございます。」
「あああの、越中の砺波へ通う街道で、此処に来る道の岐(わか)れる、目まぐるしいほどの馬の通る、彼処だね。」
僕の母方の実家がこの医王山の砺波側(南砺市福光)にあり、その菩提寺は二俣にありました。地元では金沢市二俣と南砺市福光を結ぶこの街道を「殿様道」と呼んでいました。鏡花の小説では「目まぐるしいほど馬の通る」とありますが、現実には普段は寂しい道だったのか、33体の石仏が金沢と南砺の間に祀られていて、当時の通行する人々を見守っていたと言われています。今は古道として整備されています。
少々鏡花の小説にケチをつけたみたいですが、医王のお山が薬草や花に溢れているというのは全くもって嘘ではなく、ウチの祖父も裏山で黄連などを育てていたこともありましたし、医王山から松藤などの薬草をとってきてはお茶にして飲まされた記憶があります。
母は母で、医王山に珍しい山野草を探しに行ったり、キノコ採りに行ったりよくしていました。医王山は春には白山シャクナゲの一種である医王シャクナゲが多く花を咲かせ、ササユリが群生し、お茶花として使われる様々な山野草から高山植物っぽいものまで自生しています。
医王山のベニバナイチヤクソウ
(出典:田中澄江『花の百名山』)
(出典:田中澄江『花の百名山』)
花より団子で気になることと言えば、母はキノコが採れる場所を僕らにも決して言わないまま他界したことです。今でも時々弟と「キノコ採りの名人は、キノコの生える場所は親子にも教えない」というけど本当だねと言って笑っています。
そんな愚母が生前楽しみにしていた一年に一回のイベントがありました。
(続く)
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