2020年1月25日(土)、久し振りに金沢から富山県高岡市へ足を運んだ。
能作と加越能バスというバス会社がコラボで開催する「富山三大美酒ツアー」と、自分の帰沢の日程が合ったので、これに参加できるよう、弟が準備してくれていたのである。
高岡では高校時代の3年間を過ごしたが、大学一年の時に高校時代の恩師に大学生活の報告に来て以来足が遠ざかっており、高岡に来るのはほぼ30年ぶりだった。金沢駅から高岡駅まで来て城端線に乗り換え、新高岡駅まで行く。高校時代に毎日通学で使ったこの城端線が余りに懐かしく、30年ぶりに乗るローカル線に何だか感慨深かいものがあった。
新高岡駅で迎えに来ていた加越能バスに乗る。バスの天井はガラス張りで開放感があり、窓と天井には冠雪した立山連峰と冬の北陸には珍しい青空が広がる。
能作は砺波平野の散居村の中には珍しい近代的な建物で、それでいて落ち着いたデザインが周囲の水田やチューリップ畑や庄川の流れにうまく溶け込んでいるように思えた。思えたというのは、今はまだ冬のため水田やチューリップ畑には何もないので想像するしか無いのである。現在能作のある戸出(といで)校下(「校下」は金沢周辺の言葉で「学区」の意味)には、高校時代の親友がいて、彼の家はチューリップ農家だった。そんなことも懐かしく思い出した。
能作さんは今では錫の器で有名だが、鋳物メーカーであり、元々高岡銅器の職人であった。
北陸の鋳物の歴史は古い。能登の鋳物の歴史は古代に遡るという。中能登町に雨之宮古墳という4世紀中頃から5世紀のはじめにつくられた古墳群があり、能登一帯を支配した人物を埋葬しているとされている。この頃から大陸から日本海をつたって能登半島へと鋳物師が往来していたのかもしれない。
実際、平安末期には「石納釜」、「能登釜」、「能登鼎」、鎌倉時代には「能登の国の釜」など能登の鋳物が文献に現れ始めるらしい。ただ製品のメインは「塩釜」がであった。製塩業における必需品として、塩釜の需要は多くの時代を通して続いていった。
能登中居鋳物館にある鬼面(出典:穴水町ホームページ)
金沢のとある大手・老舗製造業を見学させていただいた時に、金型は自製していて、それはこの能登の鋳型の伝統によるところが大きいとお話されていた。
高岡銅器の方は、8世紀頃に大阪堺の河内の鋳物師を招いたことをルーツとし、その後加賀前田家の二代目である利長公が高岡城を築城した後、高岡市金屋町に7人の鋳物師を招いたという。
高岡の老子(おいご)製作所さんでは、千葉県の成田山新勝寺、京都の西本願寺や三十三間堂、広島平和の鐘など国内は勿論、国連の平和の鐘や台湾最大の法鼓山の鐘など多数の梵鐘などをつくっていて、高岡銅器の歴史は今に受け継がれている。
能作さんではそんな伝統を大切にされつつ、新しいものに挑戦されている。
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