以下は2019年2月に曽文ダムマラソンに参加した時のお話です。
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曽文(そぶん)ダムと言うと聞いたこともないダムの名前でしかないかもしれませんが、曽文渓と言えば、八田與一さんがつくった烏山頭ダムの水源として聞いたことがお有りの方も少なくないかもしれません。
司馬遼太郎さんの『台湾紀行』にこのようなくだりがあります。
……結局、官田渓(かんでんけい)という大きからぬ渓流に目をつけた。この川の上流の烏山頭(うざんとう)にダムをつくって貯水しようというのである。
が、官田渓だけでは、貯水量はたかが知れている。その本流である曽文渓の水流をそそぎこみたかった。
曾文渓は遠く阿里山に発している。山々をめぐり、支流をあわせてじつに水勢がさかんだった。
ただ官田渓を堰きとめる予定地の烏山頭の位置からいえば、曾文渓は烏山嶺という山のむこうを流れているのである。
八田與一はこの烏山嶺をくりぬいて水をダムに導く設計をし、施工した。くりぬかれる隧道は、三〇七八メートルにおよび、多くの死者が出た。八田與一は、それらを湖畔の「殉工碑」にまつった。……
この烏山嶺をくりぬいて曽文渓の水を烏山頭ダムに引き込むトンネルは「烏山嶺隧道」と呼ばれています。
古川勝三先生の『台湾を愛した日本人~土木技師八田與一の生涯』において、烏山頭ダムの建設において2つの大きな試練があったといい、そのうちの1つはこの烏山例隧道の建設工事中の事故であったと指摘されています。それだけに烏山嶺隧道の建設はのかなりの難工事だったわけです。
下の地図を見ると、上中央に珊瑚のような形をした烏山頭ダムがあります。その右側から下方へ曽文渓が流れていきます。烏山嶺は珊瑚形のダムの右側にあり、隧道がそれをくりぬき、曽文渓と烏山頭ダムをつないでいるのが分かります。
(出典:古川勝三『台湾を愛した日本人~土木技師八田與一の生涯』P127)
下の写真において、右側に見えるのが曽文渓です。中央の建築物は水門で、烏山頭ダムに取り込む水量を調節するとともに、ゴミなどが入らないように濾過の役割をも果たしています。
更に水門の西側です。下の写真の右手が水門、左側が烏山嶺隧道の東口です。
もう少し近づいてみたところです。取水口の両岸の石垣は、当時八田技師と一緒に台湾に来ていた金沢出身の方々が、前田家の家紋の梅鉢紋をイメージして作られた、という話を昔案内してくれた嘉南農田水利会のお姉さんがされていました。幾分山奥で、草が生えても中々草刈りに来る人も少ないため風化しているとも残念そうに仰られていました。
最後の写真は、東口の正面図です。
下方の口に曽文渓の水がどんどん入り込みます。その量たるや毎秒50トン、水流の速度は毎秒2.1メートルとのことです。想像が難しいほどの大きなスケールです。
残念ながらこの取水口は役目を果たし、今は新しい取水口の工事もほぼ終わり、ほぼ使われなくなっていると聞いています。
取水口が変わっても、曽文渓は今でも烏山頭ダムの水源であることに変わりなく、烏山頭ダムから嘉南平原の田畑に潤いの恵みが注がれ続けています。
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