台湾人の親友Tと「台湾人は漢民族か」について、何か科学的にこの疑問に答えてくれる研究はないかとメールでやり取りしていたのですが、その際に律儀な彼は、彼は沈建徳という方の『台湾血源七千年之証言』という論文を議論したスレッドを送ってくれました。
この沈建徳と言う方は中興大学という大学の経営管理の副教授で統計の専門家とのことです。
沈教授は1624年から1995年までの台湾の人口モデルを構築され、同時に35もの文献から台湾の人口に関わるデータを収集し、本モデルを検証されました。
(1624-1893年の拡大図)
まず言葉の説明ですが、台湾の原住民は『平埔族』という平地に住んでいた部族と『山地族』という山地に住んでいた部族に大別されます。
沈教授の人口モデルの説明は大体以下の通りです。
1630年頃のオランダ統治時代に、開拓のために大陸からオランダ人に連れられてきた閩南系の人たち(福建省南部の人たち)は8千人に過ぎず、当時の台湾の全人口約50万人からすると非常に少ない数でした。かつ、福建での戦乱や飢饉が収まってからまた大陸へ戻った人が多かったとのことです。
1661年に鄭成功がオランダに代わって台湾を統治し始めたとき、大陸から連れてきた人たちの数は3万人弱程度であったとのこと。対して、当時の台湾の全人口は70万人強。
鄭成功の努力むなしく台湾の統治は清の手に移ったのは1683年で、このときの漢人は数千人いるのみとなったようです。というのも、清の統治により鄭氏の連れてきた官僚、軍人、一族はすべて大陸へ送還されたか抹殺されたのではないかと言っています。
さらに「板キレ一枚でも海に出てはいけない」という徹底的な鎖国政策をとった200年にわたる清朝時代に、こっそりと台湾へ渡ってきた人が多いとされますが、当時の開墾地の面積から支えられる人口を分析すれば、この数は多くて4,5萬と推定され、これらの流民は殆どが男性であったため、平埔族との混血になったとされます。
このように純粋な漢人は殆どいなくなったのに、多くの台湾人が今に至るまで漢人の名前を名乗るようになったのには、どうしてでしょうか。
それは清朝が原住民に対して漢人の苗字と戸籍を与え、漢人には税を軽くするという政策をとったからだと考えられます。
しかもこの戸籍は日本統治時代まで引き継がれたわけです。
このように、清朝統治時代と日本統治時代には、血統上での純粋な漢人は殆どいなくなったのに、苗字や戸籍上漢人を名乗る人が多くいたという矛盾した状況にあったということです。
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