敗戦後に台湾から日本人が去った後、国民党政権が台湾語や日本語を厳しく禁止しました。
そして、例えば敗戦時に小学校を卒業した人は今や80歳近くで、日本の教育を受けた台湾の人々は減る一方です。
それにもかかわらず、どうして日本語が今もなお台湾の人々の北京語の中に残っているのでしょうか。
この問題を皆さんと考えていくために、とある台湾人の友人のお話を紹介したいと思います。
彼女のお父さんは小学生の時に敗戦を迎えました。
彼にとって、家で話す言葉は台湾語であり、学校で話す言葉は日本語でした。
それが突然ある日を境に、小学校の授業が突然北京語になったそうです。
北京語の「ㄉㄆㄇㄈ(ぼ~ぽ~も~ふぉ~)」はまだ小学生の彼にとっては、突如姿を現した得体のしれない外国語であり、彼は結局「ㄉㄆㄇㄈ」は習得できず、北京語が分からないまま、平仮名や片仮名を懐かしみながら小学校を卒業したのだそうです。
彼女が幼少の頃、この多桑(とうさん)が突然言いました。
「いい子にしていたら、『チャンバラ』を見に連れていってあげるよ。」
彼女は聞きました。
「多桑、『チャンバラ』って何?」
「しぃ~っ、大きな声で言っちゃダメだよ。絶対他の人に『チャンバラ』のことを言っちゃいけないよ、警察に捕まるから。」
多桑の発したこの不思議な響きの『チャンバラ』という言葉、そしてあの時の多桑(とおさん)の一種神妙な態度が彼女の心の中のどこかにずっと引っかかっていました。
それから何日か過ぎたある日、多桑は彼女に言いました。
「今日はお出かけするから着替えておいで。」
多桑に彼女が連れられて着いた場所は、おもちゃを沢山売っている場所でも、美味しい食べ物がある場所でも遊園地でもありませんでした。
そこは多桑の友人の家で、普通の民家でした。
(次回へ続く)
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