こんななぞなぞを聞いたことがあります。
問: 「敗戦により日本人は台湾を去ることになりましたが、その時二人の日本人は台湾に残りました。その二人の日本人の名前は?」
答: 「歐吉桑(=おじさん)と歐巴桑(=おばさん)」
問:「実は、もう一人日本人が台湾に残っていたようですが、その人の名前は?」
答:「運將(=うんちゃん)」
日本統治時代に日本語が台湾語の中に残り、更に敗戦後にはそれらの日本語は北京語に変換されました。
その代表例が上の3つの言葉であると言えます。
他にも、多桑(=とおさん)、卡將(=かあちゃん)、看板、氣持(この場合は日本語のKIMOCHIの発音をそのまま使います)、等等枚挙に暇がありません。
敗戦後の国民党政府の統治時には日本語は厳しく禁じられたのですが、水面下で生き続けていました。
そして1987年の戒厳令解除を経て、1994年に日本のテレビ番組が全面解禁されると、今度は日本好きの若者を中心に、再度台湾の人々の会話の中に日本語が取り入れられました。
一部は既に台湾の北京語の一部となり(下記例の1と2)、一部は日本語のポピュラーなフレーズとして台湾の文化の中に消化されています(下記例3~5)。
1 馬殺鶏 2 秀 3 紅豆泥 4 卡娃伊 5 甘巴爹
皆さん上記が台湾で何を意味しているかご存じですか?あるいはどのような意味だと想像されますか?
正解は下記の通りです。
1 「マッサージ」 2 「ショー」(トークショーなどの「ショー」です) 3 「本当に?」(本来の北京語の意味は「餡子」ですが、発音が日本語の「本当に」に似ていることから転用) 4 「かわいい」 5 「がんばって」
すべて北京語の音による当て字なのですが、面白いですよね。
このような日本語から北京語への転用は今もなお続いています。
一つ極端な例ですが、最近『づいぐおしゅ』(zui2 guo3 shu3)という北京語を耳にしました。
意味が分からないので漢字を書いてもらうと、『最果署』とのこと。
これでもう、ますます意味が分からなくなりました…。
台湾でも人気の秋本治さんの「こちら葛飾区亀有公園前派出所」にて、主人公の両さんが処分を受けて飛ばされる僻地にある警察署の名前が「最果て署」。
これが転じて、台湾の若者は非常に辺鄙な場所のことを『最果署』(づいぐおしゅ)と呼ぶようになったということです。
なんともまあ、私は妙に感心したのでした。
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