2020年3月4日水曜日

石川県プレミアムツアー 第二日 高野山真言宗別格本山 那谷寺


202031日日曜日投稿「石川県プレミアムツアー 第二日 山中温泉こおろぎ橋畔 料亭明月楼」 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/03/blog-post.html より続く)

1月28日(火)午後、山中温泉から湯涌温泉へ移動する途中に那谷寺に寄りました。

後に「越の大徳」と讃えられた泰澄法師は、夢に現われた女神より「白山に来たれ」と呼びかけられます。このお告げを信じた泰澄は、それまで誰も成し遂げられなかった白山登拝を決意し、弟子とともに白山を目指して旅立ちました。そして幾多の困難の末、ついに山頂に到達。そして主峰・御前峰に白山比咩神社奥宮を創建し、白山妙理大権現が奉祀されたされています。これが養老元年(717年)で、この年をもって白山開山の年としています。

那谷寺も同年養老元年(717年)、泰澄法師によって開かれました。717年といえば平城京遷都から僅か7年後のことです。

2018年夏に台湾大学日本研究センターや国際産学連盟のメンバーを連れて、石川県の百年老舗企業9社を視察しました。その際、最初にお邪魔したのが「粟津温泉 法師」でした。法師さんは養老2年(718年)の開湯で、法師家のご先祖は泰澄法師のお弟子さんで、泰澄法師からこのお湯を守るようにと言われて、1300年の間この那谷寺さんの近くで温泉旅館を経営されています。現在のご当主は46代目だそうです。

また医王山の泰澄法師による開山は養老3年(719年)ですが、医王山については別に詳しいお話をさせていただきたいと思います。

石川はどうしても加賀百万石のイメージが強く、江戸時代の歴史ばかりが語られるきらいがありますが、那谷寺さんを始め、泰澄法師が関係する古跡には1300年の歴史があります。

話は前後しますが、百年老舗企業の視察を終えてから、知り合いに連れられて那谷寺さんにお邪魔しました。ご多用な副住職さんに御自らご案内していただき恐縮しておりました。副住職さんは、私と年が同じくらいで、ご母堂さまの出身地が私の愚母と同じだったりしたためか、気さくにお話ししてくださいました。

副住職さんによると、南北朝時代の戦乱により堂塔はことごとく焼失し、江戸時代の寛永十七年(1640年)より加賀前田家第三代当主前田利常公が本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを再建されたそうです。鼻毛で百万石を守ったと言われる名君利常公ですね。この時、副住職さんは「利常さんが、利常さんが」と呼ばれるので、ちょっと驚きました。私のような庶民は常に利常公とお呼びしているので……。那谷寺さんにとっては利常公はそれだけ身近な存在ということなのでしょうね。

更に平成2年(1990年)に再建された金堂は総檜造りですが、ここには台湾の檜も使われているとのことです。この檜は戦後台湾から日本へ輸出された最後の檜とのことで、これ以降は台湾から檜を輸出することは禁じられているとのことです。ここにも台湾と石川との御縁を感じます。

副住職さんによると紅葉の那谷寺はやはり大人気で、秋は大変な混みようとのことです。冬の雪の那谷寺がオススメですよとおっしゃってくれました。

今回はひっそりと台湾の方をお連れし、二人にて参拝させて頂きました。山門です。塀の五本線がお寺の格式の高さを表しています。気をつけると分かりますが、京都や奈良でも塀に五本線があるお寺は多くありません。


残念ながら雪はないですが、雪吊りはやはり良いものです。


雪が無いかわりに、大悲閣本殿に参拝する事ができました。


展望台から眺める奇岩遊仙境。那谷寺さんは1300年以上、三体の神仏をご本尊としてお祀り続けていらっしゃいます。十一面千手観音、白山妙理大権現、そしてこの自然奇岩遊仙境です。


泰澄法師は白山やその大自然の神々と魂の交流を図る「自然智」(じねんち)の教えを説かれたと言います。自然と一体になって生きていくことは日本の伝統的な価値観であると思いますが、那谷寺さんは1300年以上に亘ってそれを説いていらっしゃるのだと思います。

山中温泉で曽良と分かれた俳聖芭蕉は、元禄二年(1689年)八月五日に那谷寺を参拝し、「奇石さまざまに古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上に造り、かけて殊勝の地なり。」と奥の細道に記したそうです。


芭蕉が那谷寺で残した名句は「石山の石より白し秋の風」でしたが、おっちょこちょいの僕は苔むし加減が綺麗な別の句碑を撮影してしまいました……。(しかも読めないので、お恥ずかしい限りです。)

次に医王山まで行かないといけませんのでちょっと早歩きでしたが、1300年の古刹を散策してみました。今度は雪の那谷寺にお邪魔したいものです。

(続く)

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2020年3月3日火曜日

とある台湾で流行っている漫画について



最近ツイッターで台湾のどなたかが発表した漫画です。日本でも紹介されているようですが、改めて見ていきたいと思います。

上半分は台湾の日本統治時代を描いています。日本人が台湾人に対して、「勝手にどこででも痰を吐いたり、小便・便をしてはいけない。清潔な水道水を使わなければならない。港湾では検疫を行わなければならない。それにまだまだ……(以下百字以上続く)」と言っています。そして「台湾の衛生と防疫管理等は日本が教えてくれた。」とあります。

下半分は現代を描いています。日本人に対して「マニュアル上に書いてない状況に遭遇するとこうなる。」との説明の言葉があり、「石化」している、すなわち固まっている日本人の絵が描かれています。台湾人は日本人に「固まり方が激しいけど、私に教えて欲しい?」と聞いています。「風水輪流転」というコメントが取り消し線で消されています。「風水輪流転」は「時は流れ、運命は流転する(入れ替わる)」というような意味に捉えてよいかと思います。

ここで日本統治時代の台湾の衛生管理を更に詳しく見るために、少々長いですが、司馬遼太郎の『台湾紀行』の一節を引用してみます。

……中国南部の多湿な地は、“瘴”という毒気があると中原の人達はおもっていた。
 “瘴”は、熱病のもとになる。瘴雨、瘴霧、瘴癘(しょうれい)などというおそろしい熟語がつくられた。

 台湾は、そういう地だった。
 マラリアだけではなく、ネズミが媒介するペストもたえず発生し、蔓延した。
 むろん、赤痢などの疫病の発生も多く、防疫思想は皆無といってよかった。
 後藤新平自身、医者であり、かつ内務省衛生局長や陸軍の検疫も担当して、衛生の専門家だった。
 その上、かれは高木友枝という専門家を台湾によび、衛生行政のすべてをまかせた。
 「四千五百名にも及ぶペスト患者の出たことが二年もありました」とまかせられた高木友枝はいう(鶴見祐輔著『後藤新平』)。
 高木の衛生課の部署からも数十頭の病鼠が発見され、また官舎からもペスト患者が出るというしまつだった。ついでながら、当時の総督府庁舎は全時代の巡撫衙門の建物をつかっていた。平屋の小さな中国式家屋で、あたらしい総督府庁舎ができあがるのは、大正八年(一九一九)まで待たねばならなかった。
 全島に、防疫運動も展開した。日本人があまりにペストさわぎをするので、台湾人たちは日本人がペストを台湾にもちこんだとかんちがいしたらしい。
 また公設の魚菜市場と精肉場もつくった。最初はここからの収益をすべて衛生費にあてるというやり方をとった。この財源捻出のやり方は後藤新平のアイデアで、また「公共衛生費」という予算費用のたてかたも、財政学上、独創的なものであったらしい。……

高木友枝という人は会津の出身で、後藤新平の東京帝国大学時代の学友、元々北里柴三郎の助手をしていました。1901年に台湾でペストが大流行し3000人以上が死亡、後藤新平は高木友枝を台湾によびました。高木友枝はその後台湾総督府医学学校校長、中央研究所初代所長、台湾電力株式会社初代社長等を務め、今でも「台湾衛生学の父」と呼ばれています。

最近でも2018年に「黃土水、高木友枝典藏故事館」という高木友枝の記念館がオープンした際、SARSの時の衛生署長(厚生労働大臣に相応)で現副総統の陳建仁さんが、高木友枝の子孫の板寺慶子さんと総督府で面会されていました。

後藤新平のアヘン撲滅の話は余りに有名ですのでここで詳細は論じませんが、このように日本統治時代の台湾、とりわけ第四代総督児玉源太郎と民政長官後藤新平の時代には、それまで化外の地であり瘴癘の地であった台湾において、伝染病を抑え、公衆衛生を普及させていったのです。当然、当時マニュアルなどありませんでした。

33日朝現在において、ジョンズ・ホプキンス大学のサイトによると、武漢肺炎の患者数は日本では247名、台湾では41名です。台湾政府は感染をうまく抑えている一方で、日本政府は非常に混乱しているように見えます。

今回の件で「同じ日本人でこの差はなんなんだ」と台湾の人達は驚き呆れているのですが、この漫画はそんな台湾の人達の気持ちをうまく描いているように思います。

長州人の児玉さんは、天からどのような思いで同郷の後輩である安倍さんを見ているのでしょうかね。

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2020年3月1日日曜日

石川県プレミアムツアー 第二日 山中温泉こおろぎ橋畔 料亭明月楼


(2020年2月26日水曜日投稿「石川県プレミアムツアー 第二日 山中温泉かよう亭 ④日本一の朝御飯」 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/02/blog-post_26.html より続く)

山中温泉の街を散策した後、こおろぎ橋のたもとにある「明月楼」さんにお昼ごはんを食べに行きました。「明月楼」さんは山中で最も歴史のある料亭です。創業は大正元年あたりで、今のご主人は四代目とのことです。

前回2018年お邪魔した時は、大雪で雪に埋もれる「明月楼」さんがとりわけ情緒に溢れていました。(皆さんは除雪作業で情緒どころではなかったのでしょうが。)


今年は暖冬で全く雪がなく残念でした。

お料理に話を移しますと、ここの鰻は絶品で、今回のお目当てはミニ鰻会席です。

この話は確か以前明月楼さんで聞いた受け売りですが、鰻の開き方は関東では背開き、関西では腹開き、焼き方は関東では先に蒸してから焼く、関西では蒸さずに直接焼くとのことです。こちらでは背開きで蒸し無しです。(加賀藩と支藩の大聖寺藩は基本的に武家文化ですので、ハラキリは縁起が悪い。)またタレも関東とは異なり、くどくなくあっさりとしています。

天然の鰻は勿論、この焼き方やタレの塩梅が僕は堪らなく好きで、山中の付近に来た時には必ず立ち寄るようにしています。

今回は日頃の激務でお疲れの台湾の方が一緒ですので、明月楼さんの鰻で心も身体も癒やして頂ければと思いお連れいたしました。

前菜の鰻ざくです。


お造り。


鰻の牛蒡巻き等の炊合せ。牛蒡と鰻って結構合うんですね。この緑釉の器と牛蒡や鰻の色もよく合っていて美しいです。


鰻の蒲焼き。この蒸し無しの焼き加減とタレが素晴らしいのです。


う巻き。僕にとっては明月楼のう巻きが柔らかすぎず、硬すぎず、ジューシーさといい、究極のバランスがとれたう巻きに感じるのです。


鰻茶漬け。鰻や御飯は勿論、出汁がまたいいんですよね。石川に戻ると出汁の美味しさに幸せを感じます。


新作のデザートは鰻のアイスクリーム。開発に2年程かかったようです。最初はそのまま頂きます。


次に山椒をかけて異なる風味を楽しみます。鰻の風味は大人のキャラメルっぽい味がします。山椒は一種カルダモンのような感じがします。なお、鰻を使ったデザートといえば浜松の夜のお菓子うなぎパイですが、こちらはそれとはまた別の味ですね。念の為。


余談ですが、「昨晩はかよう亭に宿泊いたしました」とお話すると、明月楼の方は「あらー、素敵なお宿にお泊りになられて。うらやましいー!」と仰られました。確かかよう亭でこれから明月楼へ行くと話した時には、「あらー、美味しい鰻を食べに行かれるの?うらやましいー!」と仰られました。山中の方々はみなさんお互いに誉め上手ですね。

(続く)

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2020年2月29日土曜日

九份付近でプチ登山 ③天空の城黄金神社


2020224日月曜日投稿「九份付近でプチ登山茶壺山と半屏山登山」 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/02/blog-post_24.html から続く。

半屏山の頂上からススキ道を進んでいくとまた上りや下りの起伏のある山道もありますが、今までの道のりを考えると随分と歩き易いものでした。

アスファルトの道に出るのでこれを右折して暫く行くと、更に右側に整備された綺麗な歩道が現れます。矢印の形の看板に「黄金神社」と書いてあるので、そこを歩いていきます。

すると霧の間に小さく天空の城みたいなものが小さいながらも見えてきます。


これを見ながら歩き続けると、霧が少しずつ晴れてきて、黄金神社がよりハッキリと見えてきました。



絶景になんだかドキドキしながら、早歩きで黄金神社へ向かいました。

遂に入り口に到着しました。桜の花が咲いています。


この入口から中に入ると立派な灯籠と鳥居があります。


更に中には灯籠とともにギリシャ神殿のような柱が残されています。


一番奥です。


説明の看板です。正式名称は金瓜石山神社、大国主命、金山彦命、猿田彦命の三神を祀る、明治3010月創建云々とあります。


九份には何度か来ていて、黄金神社のことは知っていましたが、この神社を遠く上から見る景色は初めてで感動しました。また黄金神社の境内にいると、もう神社自体はないのですが、ここで金鉱掘削に従事していた明治人の息遣いが聞こえそうな気持ちになりました。

インターネット上で調べると、往時の黄金神社の写真がありました。


九份から足を伸ばして、茶壺山、半屏山、黄金神社と回ってみるプチ登山コース、思ったよりも大変でしたが、かなりおすすめです。行く時には手袋とお水はくれぐれも忘れずに!

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2020年2月28日金曜日

能作「富山三大美酒ツアー」 ④やまふじぶどう園でワインテイスティング


2020222日金曜日投稿「能作「富山三大美酒ツアー」若鶴酒造と三郎丸蒸留所見学」 https://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2020/02/blog-post_22.html から続く。)

次に庄川を渡って、富山市婦中地区へ向かう。五箇山を通って砺波平野を流れる庄川沿いには「川金」という鮎で有名なお宿の看板が見え、懐かしく感じた。昔、父の友人もやはり庄川沿いで鮎料理のお店を経営し、よくお邪魔したのであった。庄川の鮎は天下一品である。

庄川を越えると般若中学校下(=学区)に入る。般若中学とはインパクトのある名前で、子供の頃、近所にここの出身の人がいて、「あの人(出身が)般若や」と言われてびっくりした記憶がある。ちなみにその人は優しい方で、今でも弟がお世話になっている。

頼成の森という森林公園の横をぬけると富山市婦中地区で意外に近い。

富山県のワイナリーといえば、氷見の「セイズファーム」が有名だと思う。セイズファームは一時期ワインの輸入卸もやっていて、JALのラウンジでワインを飲んでいると、ラベルに輸入代理店:富山県氷見市…とあり驚いたことがあった。

また金沢市内では「ぶどうの木」というぶどう園を備えたレストランが有名である。「ぶどうの木」は僕の生家から目と鼻の先にあって身近な存在だったのが、最近人気が出て金沢駅や市内中心にも支店を出して繁盛している。

さて、「やまふじぶどう園」は僕が知らないだけで、北陸では一番古いぶどう園・ワイナリーだという。1927年に先々代の山藤重信さんが設立。その頃の富山では米騒動があり、お酒を作るためのお米が極端に不足したという。ちなみに僕の時代の日本史の教科書において富山県が出てくるのは、この1918年の米騒動だけだった。

色々と果物を育てたところ、ぶどうがこの土地に一番あったようである。そして1933年に念願のワイン造りを始められ、「蓬莱山葡萄酒」と名付けた富山県産ワインを発売したと言う。当時の看板を見ると、越中富山の薬売りで知られる土地柄だけあって、滋養強壮を全面に出している。蓬莱は台湾の自称でもあるため、僕はなんだか嬉しくなった。


今は家族四代11人(それと猫と犬)でこのぶどう園を切り盛りしているとのことである。

ワイナリーツアーと言っても、冬なのでぶどうの木は既に剪定されていてかつ外は寒いため、倉庫の中のワイン醸造タンクのみ見学させて頂く。今回のツアーでは能作さんでも、若鶴酒造さんでも、同じような見学がかなり多いのか、皆さん説明がかなり巧みで感心させられる。とりわけ、このやまふじぶどう園のお母さんは抜群で、大輔花子の花子のような雰囲気でユーモア溢れる語りをされる。

見学を終えてからテイスティング。


一杯目は自園産ソービニヨン・ブランの白ワイン。ソービニヨン・ブランの甘みや旨味は夜に頂点に達するため、わざわざ日が暮れてから夜に家族総出で摘んで、それを使ってワインにするので「ほしあつめ」と名付けたそうである。

二杯目はメルローとマスカット・ベーリーAのブレンドの「ねこかぶり」。フレッシュな感じが、台湾で飲むのにぴったりかなと思った。

三杯目はメルローの「ときわすれ」。非常に良く出来ていて、弟は即これを一瓶買った。

四杯目はメルローにオークチップを加えて熟成した「ジャンメルロー」。これもまた捨てがたい。

どれも美味しい。嬉しい驚きだった。どれを買うか非常に迷ったが、「ねこかぶり」を一本買って帰路についた。

【後日談】
台湾の前の会社の同僚たちとの飲み会の時に「ねこかぶり」を開けたが、好評だった。ラベルが可愛いので、友人の奥さんがボトルを持って帰った。



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曽文ダムマラソン ⑤こぼれ話


走り終わった後、預けていた荷物を受け取り体育館で着替えをし、送迎バスの乗り場へ向かいました。時間は午後1:40頃で、最終の送迎バスは2:00です。

片付けを行っている大会スタッフに「請問,接駁車在哪裡搭?」(送迎バスの乗り場はどこでしょうか)と聞きながら、彼らが指差すところを目指して足を引きずりながら歩いていきます。乗り場はそんなに遠くないのでしょうが、たったか歩けないので気持ちは少々焦りました。

ようやく乗り場に近づいてきたと思える時に一人のおばあちゃんに出会いました。「接駁車在哪裡搭?」とこのおばあちゃんに北京語で尋ねると、おばあちゃんは台湾語と日本語をまぜこぜにして一生懸命話してくれます。山の中で日本人に出会い、喜んでくれている様子でした。最後に「バスはあそこ」とおばあちゃんが指差したところへ、日本語で「ありがとう」とお礼を言いながら行きました。

ところが待てどもバスは来ません。そのうちおばあちゃんの息子さんらしい方が顔を出して、私を見て「あっ!」と声を上げます。那是一般公車的公車牌,不是接駁車的!(そこは普通のバスのバス停で、マラソンの送迎バスの乗り場じゃないぞ!)と叫ばれました。そして息子さんが指を指す送迎バス乗り場へ慌てて移動しましたが、時間をみると既に2:05でした……。

少し待っても送迎バスは来ません。愕然としていると、金沢マラソンに参加したというお兄さんが歩いてきます。「あれ、まだ帰らないの?」と言われて、送迎バスに乗り過ごしてしまったことを説明すると、「どこへ行こうとしてる?台南?台南までは送れないけど、玉井までなら送ってあげるよ。」と言ってくれます。山の中のダムのほとりでどうしようかと途方に暮れていた私は、嬉しくて涙が出そうになりました。

このお兄さんは高雄の人で、奥さんと子供たちは玉井の民宿で遊んでいるとのことです。大きな4WDの車で山を下るとマンゴーで有名な玉井の街にすぐに入り、マンゴーかき氷の看板をすり抜けながら、親切にも私を玉井のバスターミナルまで送ってくれました。

高雄のお兄さんに救ってもらい、またも台湾の方々の人情に助けられました。

玉井から台南のバスはことことと心地よく揺れながら進んでいきます。私は眠りにつきました。

曽文マラソンは、完走できたし台湾人の人情にも触れることが出来て、最高でした。満足です。めでたし、めでたし。

最後に大会ビデオを転載します。

 
(出典:曽文ダムマラソン大会フェイスブック)

(出典:曽文ダムマラソン大会フェイスブック)

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2020年2月27日木曜日

セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』 ③日式建築の意義


2020221日金曜日投稿「セミナー『台湾の日式建築を訪ねて』日式建築とは」
から続く。)

昨今台湾では各地で日式建築が再生され、新たな観光スポット等として脚光を浴びています。台北では松山煙草工場が「松山文創園區」として生まれ変わり、台中の「宮原眼科」、台南の「林百貨店」はそれぞれの市を代表する観光スポットとなっています。

日本人は懐かしい気持ちでこれを見、明治から第二次世界大戦敗戦までに建築されたものが今に至るまで保存されていることに意義を感じます。いわば、時空を超えて存在している建築物自体に意義を見出しているのではないでしょうか。

一方で台湾の人々が熱心に日式建築を再生保存する背景には、彼らが別の意義を感じている事実があると渡邉先生は指摘されます。

その例として、渡邉先生は基隆高級中学宿舎についてお話されました。

基隆高級中学宿舎の正式名称は「基隆官廳舍遺址―基隆中學校奏任官舍」らしいです。基隆に残された奏任官の宿舎はこちらのみで、奏任官とは明治時代の官吏で高等官の一つ、今で言えば省庁の課長ぐらいに相応するようです。

基隆高級中学の盧先生という方は、荒れ放題になっていたこの宿舎を教育の場として使っていきたいと考え、渡邉先生を呼んでこの宿舎を見てもらったり、生徒たちと荒れ放題になっている建物を掃除したり、庭の草むしりをしたり、色々と保存に向けて情熱をもって様々な行動を起こされました。

そして201911月には美しくなった宿舎にて座談会が開催されました。

(出典:「基隆官廳舍遺址―基隆中學校奏任官舍」のフェイスブック)

渡邉先生もこの座談会に出席されたのですが、建築物についてお話されたのは渡邉先生ご自身だけで、他のスピーカーの方々は、228事件当時にこの建物がどのような役割を果たしたか、この建物の付近で昔何があったか等の話ばかりで、建物自体の話は誰もされなかったらしいです。

台湾の人たちにとって日式建築とは「触媒としての建築物」であるというのは渡邉先生の言葉です。日式建築は地域の人々の記憶や歴史という無形で価値有るものの中に、有形で象徴的なものとして佇んでいるのでしょう。

「基隆官廳舍遺址―基隆中學校奏任官舍」のフェイスブックのページ(https://www.facebook.com/%E5%9F%BA%E9%9A%86%E5%AE%98%E5%BB%B3%E8%88%8D%E9%81%BA%E5%9D%80-%E5%9F%BA%E9%9A%86%E4%B8%AD%E5%AD%B8%E6%A0%A1%E5%A5%8F%E4%BB%BB%E5%AE%98%E8%88%8D-385862512175111/)を拝読していると、恐らく盧先生が書いたと思われる文章を見つけました。

文創是城市再生的推手!
但,城市若缺乏對歷史文化等精神價的認識及理解,就好像教育若完全由市場機制主導,那就是補習班化,只有授業而沒有傳道;宗教若商品化,買賣"",那根本就是褻瀆,只有物質而喪失了宗教講究神性丶勸人為善之道。文化產業最主要的特徵,是對「精神」的高度訴求,如何開始呢?
可先從認識歷史,感知故事,觸動同理神入,才能再更積極、精確地去了解、掌握人們渴望的價與感受,接下來的事業,需要引入或善用此文化元素,才能造就魅力十足的「文化創意產業」。

(以下拙訳)
文化・創造は都市再生の大きな担い手である!
もし都市が歴史や文化等の精神的な価値に対して理解を欠くならば、教育は市場メカニズムの主導により予備校化し、授業だけで伝承はなくなってしまう。宗教がもし商品化すれば、「神」の売買になり根本的に冒瀆でしかない。物質があるのみで、宗教の精神に対するこだわりや、人を善へと導く道は喪失する。文化産業の主な特徴は、精神的なものに対する高度な追求である。だがどこから手を付ければよいのか。
 それはまず歴史を認識することから始められる。歴史の中にある物語を知り、感じ、それに触れ、そして共感する。更にはもっと積極的に細かいところまで正確に理解し、人々が求めている価値や気持ちを把握する。続いて文化の要素を取り入れて活用する。こうしてこそ魅力溢れる「文化創造産業」を生み出すことができるのではないか。

日式建築は、台湾の人々にとってれっきとした歴史の一部であり、伝承すべき精神的価値との媒体となっているように思いました。

(続く)

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本ブログの概要

起業、大学院での活動、在台日本人の生活等を通して色々な角度から見た台湾について、そして台湾から見た日本について、皆さんとお話していきたいと思っています。