小林秀雄の『考えるヒント』の『福沢諭吉』の項に、こんな話があります。
・・・不徳を語る言葉の種類は山とあるが、程度によって徳を語る言葉に転ずる。例えば、「傲慢」は「勇敢」に、「粗野」は「率直」に等等枚挙にいとまない。ところが絶対的に不徳を表わして、徳に転じ得ないものが一つある。それが「怨望」という言葉だ。
更に怨望家の不平は、永遠に満足される機会がない。不平を満足させるにはアクションが必要であり、怨望家には自発性がないからだ。
怨望家は、他人を自分の状態にまで引下げて、他人が自分の水準に陥ることを願うのみである。・・・
なんやら、平等とやらを盾になんでもかんでも皆が一緒でなければならない、とご主張なさる今の日本の政治家さんとその支持者の皆様を見越して書かれた文章ではないかと思えてきます。
このあたり、福沢さんと小林さんは間違いなくノストラダムスを凌駕しています。
そして、今日の一部の日本人の伝家の宝刀であるこの「平等」については、福沢さんは学問のすすめの第二章で、「『同等』(=平等)は『権理通義』が等しいことである」と仰られています。
「理(ことわり)を権(はか)る、義を通すことが等しい」ということは、万人に対して、等しく理をはかられるべきで、等しく義を通されるべきである、ということ。
ですから、すべての人に対して、理や義というものが等しく考慮されるべきである、反対に言えば、特定の人に応じて理や義は歪められるべきではない、と言っていると理解できます。
ところで、誰もが平等である権利をもつ、なぞという話は毛頭見当たりません。
更には、「自由」についても、「自由と我儘との界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」とずばり。
例えば、日本のマスメディアは情報受信者を混乱させて、正確な事実を把握することの妨げになる一方です。
ですから、現代日本の報道の「自由」と福沢さんの「自由」とは字面のみが同じで、異質のものです。
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小林秀雄が福沢諭吉について書いていることは記憶にありませんでした。「考えるヒント」は読んだはずなんですが、、。
返信削除「怨望」はジェラシーですね。もしかしたら日本人の本質かもしれません。日本社会の野蛮なところでしょう。福沢諭吉は、「学問のすすめ」で「野蛮から文明への転換が教育である」と言っています。現行の日本の教育で、野蛮から遠ざかり文明に近づくことができるのかどうかを国会で議論して欲しいものです。
アメリカ人のジェラシーは日本人の怨望よりもずーっと弱いもので、ネガティブに働くよりも、「自分もがんばろう!」とポジティブに働くほうが多いのではないですか?相手を自分のレベルに引き下げるよりも、自分も怨望を抱く相手のレベルまで上がろうという。
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コメント有難うございます。
返信削除「ジェラシーが日本人の本質」というご指摘にはっとなりました。
「いじめ」も現代日本において極端な社会問題の一つだと思いますが、これもまた怨望からきているところが多々あるのかもしれません。
福沢さんの奥深さを益々痛感しております。